迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

菜食主義者の勘違いを、農家目線から糾す話…

今日から、条件付きといえど、ネットの更新作業ができる様になったんで、ボチボチとリハビリがてらにネタをやってこうと思う。ただ…以前にも言った通り、毎年恒例の“命日企画”は、使える機材の都合で今年は中止です…ご了承ください。

さて、今回は、ちょっと海外でいわゆる“菜食主義”を標榜してるテロ組織が、食肉文化撲滅を目指して精肉店やファーストフード店等を襲撃してるというニュースが目に着いたんで、そこに対する軟弱野菜栽培農家から、皮肉を込めて一言…

その野菜、獣の血がなきゃ育たない!

誤解がない様に言えば、如何なる植物も、動物の死骸や糞尿を由来とする有機物無しでは育たないし、そうしないと、いつまで経っても死骸や糞尿が“その場”に留まったまま、不衛生な環境になるという事…つまり、如何なる生物も食物連鎖というサイクルに基づいた処理を経る事で、一定の生命維持が保持されるのであって、その理を否定する事は、生命尊厳をも脅かしかねない愚行なのです。言葉が汚いですが、弱肉強食は必然の“悪”であると同時に、その“犠牲”の上に生命尊厳は尊重されるモノであり、故に仏教の“不殺生”という戒律が存在する訳です。

この“不殺生”という戒律を誤解してる人が非常に多いのが先鋭化した菜食主義者で、動物愛護を訴える市民団体とほぼ同じで、自己の正義の前において、それを受け入れられない者は潰しても構わないという矛盾を標榜する訳です…言っときますが、“不殺生”の本懐は、“自らの手を血で汚さない”って事であり、暴力や破壊活動の正当化する言い訳ではありません…言い方を変えると、供養として受け取る品々の中に、加工肉や皮革製品、絹や羊毛などで作られた装束があったとしても、信徒の“真心”からのモノである以上、受取拒否をしてはいけないのであり、逆に、どうしても鮮度の良い魚を食べたいからとか、厨房内に発生した害虫駆除を、自分でやる事を“禁じ”てる訳です。

NHKEテレで、毎月最終日曜に放送してる、『やまと尼寺精進日記』という番組…桜井市にある音羽山の尼寺に住む、3人の尼僧(一人は正確には尼僧じゃないが…)が、創意工夫で四季折々の精進料理を、参拝者や信徒に振舞ってるんだが、時折、“生臭料理”に手を染める事がある。しかし、それらも信徒や参詣者からの頂き物であり、それを大事そうに食す場面も紹介している。精進料理といっても、完全なる菜食料理ではなく、市販の合わせ出汁を使う事もあるし、自家製ヨーグルトやクリームチーズが振舞われる事もある。つまり、野菜や米、豆類だけじゃなく、麓で生活支援を行なってくれてる信徒から“供物”として受け取った物であれば、それが川魚であろうが乳製品であろうが関係なく、彼女達が調理した時点で“精進料理”として供されるのである。もちろん、“不殺生”の戒を破る行為である以上、それに似合うだけの“供養”をやっての話だ。

食肉文化を野蛮行為と罵るのであれば、農業は非常に業が深い職業であり、故に“底辺産業”と蔑むのも無理ない話だ…だが、全ての“食”は元々、安定供給が確約されたモノではなく、“いつ食べる事ができるか”が見通せない狩猟生活からの教訓として生まれた“産業”でもある。山野草やキノコ類、果実は、その多くは収穫の時期を誤れば、そのシーズンは“食べられない”代物となり、だからと言って備蓄用として乱獲すれば、後世に対して枯渇する事になる。アイヌの食文化でも、必ず後世…来期以降の収穫を確保する為に、例えばオオバユリの根を収穫する際は、種苗用と食用に分けた上で、採取地点に種苗用を残す。子熊を捕獲したら、最低1年以上飼育した後に、“イヨマンテ”という儀式を行って屠殺する…熊の御霊を“神の世”に送り出し、残った肉や毛皮を加工するのである。如何なるモノにも“神が宿る”という概念が、アイヌも含めた日本の文化の根幹にあるからこそ、農林水産業を営む家には、それこそ神仏信仰が普及する以前から、森羅万象を対象とした畏敬の念があった。当然、如何なる宗教哲学においても、その恩恵は全て、平等にして貴賎上下を有する事に非ずとしてる訳であり、故に、菜食主義者が自己の正義以外を断罪する事自体、その理を破る不届者となる。何度も言うが、畜産も含めた農業は、自然界の理を破壊した宿業であり、本来ならば、養殖以外の漁業よりも、まして林業従事者よりも“下賤なる者”とされてもおかしくない…だが、それ故に今日の食文化が維持され、多様性を示せるのであり、菜食主義もまた、その“多様性の恩恵”の中にある存在でしかない。それが理解できないのであれば、どうか、農家が作った野菜や果物を食べないでくれ…否、如何なる食事も口にしないでくれ。他者の食事を邪魔する以上、分相応に宿業を背負えない人に施せる程の“食糧”は、この世にはないから。

未曾有の災害に対する政府批判は、被災者をバカにするのと同じ行為…

放牧中ながら、今回はどうしても腹立たしい話が、ネット上で跋扈してるので、iPad Air2 から更新…西日本豪雨や、室戸台風以上の勢力で暴れた台風21号、そして…馬産地でもある北海道胆振大震災。こうも立て続けに自然災害が発生すれば、ライフライン関係や自衛隊、更に政府も疲弊するのは当たり前…なのに、対応が遅いと批判してる人達は、何様でしょうか?又、これ見よがしに東京五輪大阪万博誘致反対を声高に叫ぶ人って、どこを見て侮蔑してるんですか?それ、阪神大震災の時から、全然成長してないのと同じですよw

それはともかく、今、本当に重要なのは何か?一呼吸置いて考えるべき時ではなかろうか。被災地を助けろと叫ぶ気持ちは痛いぐらいに解るが、だからと言って、政府の対応が拙いと判断するのは時期尚早…こういう批判の多くは、経過と結果を、きちんと結び付けた上で語るべきであり、表面上の“情報”だけで判断すべきではない。そして、この期に及んで“何もしない”上に、政府批判や自衛隊、あるいは各自治体の警察、消防をこき下ろし嘲笑う連中こそ、被災者を、被災地域の“不幸”を待ち望み、愚弄したいだけの天邪鬼でしかない。

ライフラインや交通インフラの老朽化は、以前から指摘されてた部分であり、その補修や更新を行うにしても、“税の無駄遣い”と言って、バンバン中止や計画を廃案に追い込んだのは、言うまでもなく有権者の責任であり、情報弱者で法律に疎かったが故の弊害である。つまり、戦時下同様に、ごく一部のメディアが大事の様に騒いだデマに、まんまと引っかかった“結果”が今日に至る訳であり、特に北海道のブラックアウトは、直接の原因こそ震災による被害でも、日頃の備えとして、別系統の電源確保が遅れた事や、大出力発電所の“一極集中”が仇となっていて、更に、非常時でも最小限の被害で済む様に設計された原発を“放射性物質が漏れる危険が…”と言ってずっと止めたが為に、北海道内の電力供給力が、一瞬にして潰れた訳である。既存の火力や水力、更に“自然再生エネルギー”で、充分電気が賄えると脱原発至上主義者は声高に叫んでくれたが、それは平時の話であって、こういう未曾有の災害時は、公害や放射線被曝をピーキャー言ってる場合じゃない。それこそ“摂受折伏時による”という格言の如し…既存“だけ”では有事は対応しきれないし、“安定供給”を是とするにであれば、その為の“対価”をどこにどれだけ担ってもらうかを考えるべきであり、その為の機材や設備の更新は不可欠であり、そこにケチをつけた以上は、それ故の不便を受け入れなければいけない。

西日本豪雨や台風21号による被害も、政府批判を目にして来たが、これも結局は、阪神大震災の際に露呈したインフラの老朽化を“放置”した事で甚大な被害が出てるのであり、現政府が今までの“愚行に対する尻拭い”をやってる最中に愚弄するのは、お門違いもいいとこである。スーパー堤防にしろ、共同溝にしろ、地下遊水池にしろ、過去の“自然災害”からの教訓で、早急に整備すべき事案だったにも拘らず、それを阻んだのは言うまでもなく、目先の利害に囚われて騒ぎまくった“住民”である…しかも、そういう人々の多くは、災害ハザードマップの意図を無視してる上に、土地の評価額や築年数“だけ”で物事を推し量ってるトコがあるからタチが悪い。去年、台風で大和川大阪府内で氾濫した際にも指摘したが、スーパー堤防の整備計画を阻害した人々によって、本来であれば防ぐことができた(あるいは最小限の被害で済んだ)ハズの被害が出た訳であり、直の原因が“自然現象”であっても、その予防策や事前整備を怠った結果によって引き起こされた“人災”でもある。

ここんトコを踏まえた上で政治批判をするなら、災害対応に追われてパニック状態の政権に対して、協力するどころか、これを機に討伐すべきと叫んでるメディアや既存野党がやってるパフォーマンスこそ批判すべきであり、トンチンカンな行為を糾弾すべきである。つまり、余計な情報を垂れ流し、救援活動を阻害してる在京オールドメディアと、日本が壊滅する事を願って躍起になってる“革命家”気取りの連中こそ、この国の“害悪”であると悟り、責任を取らせるべきである…それができない連中だから、逃げ回るんです。卑怯であると同時に、どこまで民衆を愚弄すれば気がすむんでしょう?



遅ればせながら、台風21号で被災した関西の皆様、そして、愛すべき北の大地で起きた震災で困窮してる被災者の皆様に、お見舞い申し上げると同時に、犠牲となった方々に、哀悼の意を表します…今こそ、困難に立ち向かう為にスクラムを組む時、お互いに無理せず、頑張りましょう!

やっちまった…今年の“Shin’s Bar”シリーズ“休業”のお知らせ。

残念な報告なんだが…今年は“例の企画”に関しては、中止せざる得なくなった。というのも、Twitterでも呟いたが、ココんトコ右目の調子がおかしく、ついさっき斑鳩町内にある眼科で検査してもらったところ、糖尿病による合併症が出て、網膜の一部が出血した箇所のかさぶたに引っ張られるカタチで、網膜剥離寸前の状態だと宣告された…要は、吉田仙人よろしくなほど、失明寸前ってヤツ。左目もその兆候があるが、現時点ではそこまで深刻ではなく、だけど、内科での糖尿病も受診しろってことになり、おそらくだが、しばらく“入院”することになると思う。一応、インターネットをやるための道具(iPhone8とiPad Air2)は持ち込む予定だが、その間の更新は、おそらくTwitterのみになると思う…本来ならそろそろ、仕込みをやっときたいんだが、なんせ目が見えにくい&集中できないんで、しばらくは大阪市内某所の総合病院で“放牧”となります…w できれば、JBCまでに復帰できればと思ってるが、どうなることやら。さて、高額医療費制限の申請と、件の眼科からの紹介状を取りに、走りますか…ではでは。

パンに学ぶ“食の安全”にまつわる話。

時折巷に流れる、大手製パン会社の“危険なパン”にまつわる都市伝説…アレの類の“正体”ってのは、パン製品の多くが“カビない”事を根拠にしてる訳だが、その“理由”に防腐剤を大量に混入してるとしてるが、そもそもパン生地自身はイースト菌天然酵母の発酵によって作られるため、その段階での防腐剤添加なんて“不可能”であり、生地中に詰める具材も、一緒に焼く(or揚げる)モノに関しては、そもそもからして調理中に一度加熱処理したモノであり、大概のモノは使用するまで冷凍保存を行ってる…つまり、“なまもの”を使ってる訳ではない。したがって、防腐剤を使ってまでも消費期限を延長させてるというのは、消費者の恐怖心を煽るデマであって、本当に危ないのであれば、むしろホームベーカリーで作る方が危ない。それはなぜか?

その答えとして言えるのは、製パン工場の“衛生管理”を、家庭や手作りで勝負してるパン屋と比較した時に“全然違う”ってことに尽きる…つーのも、オープンキッチン形式で作るパン屋の方がむしろ“不衛生”としか言い様がない訳で、工場での大量生産は、焼成後にパッケージングまでの過程を“無菌状態”にできるのに対し、対面販売の手作り系は、陳列も含めて雑菌に対して商品が“無防備”なままで置かざる得ない訳である。つまり、“美味しいパン屋”のパンが常温で日持ちせずにカビが出たり、食中毒を起こすのは、防腐剤を使っていないのではなく、店舗が外気に触れやすく菌の混入や増殖を防ぎ切れないだけの話であって、製パン工場と同じだけの設備を持っているのであれば、結果としてはほぼ同じになる。

オイラの母方の祖父はパン職人だったからこそ言える話だが、小さな手作りパン屋ができる食中毒対策なんてのは、異物混入を防ぐことと、購入者に対して早めの消費を促すのが関の山であって、長期保存となると、小分けしてから冷凍庫に入れとけとしかアドバイスできない。それっくらい、実は製パン工場が導入してるクリーンパッケージシステムは、個人レベルでは大掛かり過ぎてコストに見合わない代物であり、大量生産をやる訳じゃない以上、邪魔でしかない。逆をいえば、工場で大量に、一括して製造するのであれば、異物混入の“原因”になり得る作業員(=人間)を、極力関わらせない様に作業手順や機械配置をやっておけば、基本、安全かつ安定した品質で作ることができる訳であり、焼成後に外気に触れない様密閉した“クリーンルーム”で袋詰めしたら、顧客が開封するまでは、理論上腐敗することはない。

さっきも言ったが、パン生地は“発酵”というプロセスを経ないと作れない訳であり、焼成後に防腐剤を塗るにしても、焼きたてに塗っても水分が蒸発してしまって定着しないし、冷めてから塗ったら、表面がカラカラな生地が水分を大量に吸収して食べれたモノにならない。つまり、その時点で“パン生地に防腐剤”ってのはあり得ない話であり、生地を作る段階での添加も、その成分が発酵の妨げになるが故に、生地が膨らまず、生麩の様なモノになってしまう。焼成しても膨らまないから、当然ながら南部煎餅や堅焼き煎餅よりも硬い、異質なものになる。つまり、“パン”とは言えない…てか“食品”としても怪しいモノに変質する。もちろん、蒸しパンの類でも、ベーキングパウダー添加や卵白をメレンゲ状にして生地を膨らませる方法ならイースト菌発酵は必要ないが、中華まん形式の生地は通常のパンと同じ様に、イースト菌発酵生地が使われる。仮に、防腐剤添加で日持ちさせるのであれば、イースト菌発酵が伴わない生地に限定される訳であり、それでも調理の最終段階で加熱処理が入るため、加熱温度が低いとともかく、高温調理の場合、ほぼ成分が蒸発して消えることになる。

故に、焼菓子や半生菓子(どら焼きなどの類)の場合、材料に防腐剤を混ぜるのではなく、個別パッケージに脱酸素剤や食品用除湿シート等を同封する訳であり、通常の食卓パンや菓子パンの場合は、焼成から出荷までの行程の内、袋詰めまでの段階は完全機械化(無菌室化)することで、商品に対する雑菌汚染を防いでる訳である。同じ様な話をするなら、個別包装されてる生餅も同じで、材料の餅米を蒸し器になってる機械に投入したら最後、包装までの全段階でオートメーションで作られる。だから、個別包装を開封しない限り、餅全体にカビや雑菌が増殖することなんてあり得ないのである。

フリマやコミケといった、野外や大多数の人員の出入りが激しいトコで、一般参加者による手作り菓子や軽食の販売を禁じてる理由も、実は食品衛生法に基づいた規制があって、企業ブースで販売されているモノに関して規制がないのは、衛生管理が成された工場での一括生産によって作ってるからこそであり、一般家庭の台所や飲食店の厨房で調理されたモノに関しては、そこまでの衛生管理下で作られたモノではないからこその“食中毒対策”での話である。デパートでの“実演販売”ってのも、会場となるデパートの催事スペース内での出店を条件に、衛生管理責任者の証明書を、当該自治体の保健所が出してくれるからできるのであって、それがないと、いくら腕のいい料理人が自慢の料理を振る舞いたくても、会場内で食中毒事故が起きれば、責任取るために主催者から“出店禁止”という処分となって跳ね返ることになる…こうなると、地元で営業してる店舗はたまったモンじゃない訳であり、ゆえに断るケースもあるのだ。“消費期限が短いから安全”というナチュラリストの概念は、食品衛生法を遵守する飲食店や食品加工会社から言わせれば、“食中毒ナメんな”な話なのです。

二律背反な話…平和維持と不戦の請願

正直に言えば、いかなる戦争も、その根幹にあるのは、“国”が“民”によって運営され、形成されている以上は、その生活の安寧と豊かさを保持し続けるために、様々な“施し”を“全体”に対して保証しなければいけないのであり、故に、国の体制によって、在住する民衆…国籍上現在地を“出身国”として国籍を得てる者全員が、何らかの“負担”を強いられるのは当然の話。しかし、隣接する“他国”にとっちゃ“知らんがな”な話であり、故に“異邦人”に対する取り扱いで齟齬が起きるのは日常茶飯事である…ここの部分で寛容過ぎる(てか、遠慮し過ぎ)てるのが日本の国家であり、国民性である。故に日本の領土であるハズの北方領土尖閣諸島竹島が、いつまで経っても隣国と揉める訳であり、交渉の席に着こうとしても、結局物別れに終わるのも、そういう訳である。

では“富める国”とは、何をもって“裕福”と言えるのか?様々な条件によってその価値観は違うが、“家族”という小単位で言えば、何もかもが“揃ってる”ことが基本条件となる…つまり、生老病死という自然の理に基づいたモノ以外は、いかなる理由であっても“不幸”な話であり、これが高齢者よりも先に子孫が亡くなるという事態になると、途端にその不幸度は倍増する訳である。親としての不注意で子供が事故死すると、高齢者(祖父母)としてはその“責任”を親…特に“母親”に対して全部なすりつけるケースが殆どであり、“父親”に対する責任が軽過ぎる訳であり、その“理由”を突き詰めると、男親側の祖父母としたら、“自分の子可愛い”の一点だけで物事を見る傾向があって、時間が経過してその“責任”が実は自分の倅自身にあったとなると、嫁に対してぶち撒けてた憤懣を、丸々自分の息子に…いや、むしろその数倍の破壊力を持って罵る訳である。これを規模拡大して政治にまで発展させると、何らかの“不祥事”があると、その“原因”が為政者よりも“自分自身”にあるという自覚がないまま民衆は暴言を吐く訳であり、仮に結果オーライな状況であっても、重箱の隅を突付いてイチャモンをつける訳である。言い方変えると、社会保障に十分な国庫資産、時間通りに使える公共交通機関、安全な飲料水と安定した供給ができるエネルギー資源等が“全部ある”ことが当然な状態が続くと、いつしかそれらのうちの一つでも維持できなくなった時点で、様々な“文句”が民衆から湧き上がる訳である。原発にしろ、移民政策にしろ、防災のための治水にしろ、“完璧な答え”など存在しないのに、民衆はそれを求める訳である…それゆえの“不具合”が発生した途端、多くの民衆は“民の声”に応じようと活動している為政者を批判する訳である。

で、その“民の声”の中には、為政者が“応じてはいけないモノ”も含まれている訳で、税金や法律の見直し等、国家運営に関わる重要案件で、冷静に考えるとマズいモノも大量に含まれている。しかし、これを一つ一つ民衆に対して“丁寧”に説明したトコで、それをキチンと理解できる人は、1割もいない…自分の“生きるため”に集中するあまり、周囲を見渡す時間すらないのだ。だから、国鉄の分割民営化によって不利益を受ける僻地三社(JR北海道・四国・九州)は、路線をどんどん“廃止”せざる得ない訳であり、本州三社(東日本・東海・西日本)でも、新幹線以外の路線に関しては、ある意味蔑ろにならざる得ない訳である。赤字国債の発行を“怪しからん”とした“民の声”に応えるために、選んだ結果に対して文句を垂れる人は“別人”でも、結局は“自分が選んだこと”として、何らかの“落とし前”をつけなければいけない。その方法はいくつかあっても、何を選んだとしても苦情が上がるのは目に見えた話で、それを“理由”に内閣総辞職を要求する様では、それこそ“浅はか”としか言い様がない。“自分”で受け入れなければいけない“対価”である以上、それを受け入れられないと言った時点で、“国外追放”されても文句は言えないのです…むしろ、受け入れ先がある上での追放ならヌルい位で、最悪は自害せざる得ないトコに追い詰められます。

平和維持といっても、その“解釈”を一つでも間違えると、却って国際的な諍いになる訳で、その一端に“戦争”が存在する訳です。当然ですが、戦争にもいくつかの“因果関係”が介在し、それが一種の“陰謀論”につながる訳です。特に、メディアが流す“情報”には、報じた者が“見てみたい景色”という願望が含まれていて、その多くは、“自分に被害が及ばない”ことを前提とした内容であることが必須になってます…つまり“騙されたモンが悪いw”という概念で、現場で起きた事柄を、自分の“思い通り”に展開したら面白いだろうというノリで、真実を曲解する訳です。その結果が従軍慰安婦に関する情報であったり、LGBTに対する誤解を招く報じ方であったり、他宗派に対する排斥を求める“意見”だったりする訳です。そこの共通するのは、人々が抱えてる“心の闇”を晒すことで生じる不信感と憎悪の連鎖であり、それを“他人事”として面白おかしく報じることで、“自分”以外の他人を“見下したい”という“欲望”なのです。ナチスドイツの愚行の一つに、ユダヤ人や身障者、LGBTの“排斥”があった訳だが、何でそれが“あの時代”にまかり通ったかと言えば、国民の多くが“少数派”に対して過剰なまでの保護や優遇に対する“不満”が底辺にあり、それを“周辺国”が当時のドイツに擦りつけた…という背景があります。そこに、ヒトラーの私情が絡むと、“指導者と同意”だった人々は、それを“免罪符”にして差別を“正当化”していった訳です。故に、その“代償”は祖国が分割されるという“悲劇”となり、90年代に再統合するまで苦しんだ訳です。また、中国共産党がやっている“人民浄化”も、人口の大半を占める漢民族の意向に添った内容であり、チベットウイグル内蒙古民族等に対して、固有の民族文化の廃絶や公用語としての北京語使用の義務等、一方的に押し付けてるトコがあって、故に香港の民主化運動家を“精神疾患者”として病院送りにする一方で、本来治療が必要な精神疾患者が起こす“事件”に関しては、ほぼ“無罪放免”という状況が発生してるという情報が、SNSで実しやかに散見される訳です。どっちにしろ、そこには、自分自身が“加害者”になってるという自覚がないまま、事が進んでいるため、行き着くトコまで行くしか止める術が“ない”のです。

だからこそ、“不戦”と“平和維持”は二律背反な話であり、それを本気でやり遂げようとするなら、自国民と周辺国に対してかわした“約束”を、どこまで“遵守”できてるかを見守ると同時に信じてやるしかないのです。双方が疑心暗鬼になれば、必ずそれ故の齟齬が起こり、内乱や戦争に発展するのです。いかなる独裁者でも、その“きっかけ”は民衆と官僚、メディアによって“作られた理想”であり、それを体現する“依り代”として担がれるトコから始まる訳であり、自分達の願いを叶えてくれる存在として担いでいる以上、当人の意向には逆らえず、そしてそれを逆利用して暗躍する人々は、巨万の富を得る代わりに定住できる場所を失うのです。それでも、そんな富豪や独裁者を“羨ましい”と思います?

“男尊女卑”ってそんなに重要?

東京医大の“女性軽視”な話といい、望まぬ妊娠からの出産で“我が子”をトイレに遺棄したとして逮捕される話といい、話の根幹を問えば、未だ日本は“男尊女卑”という概念が蔓延っていて、ちょっとやそっとじゃ変革できないほど“社会が病んでる”のである。でも、それって本当はみんな、無自覚のままで今まで来てるからこその弊害じゃね?そもそも“男らしさ”の主眼として、人前で泣かないとか、女性よりも体力があるとかいうけど、そんなのは個人差がある訳だし、それが“原因”で体壊した男性ってクズな訳?“女らしさ”という主眼も、家事も育児もワンオペ当然って、どうな訳?いずれの考え方も、途方もない大間違いであると同時に、本当に苦労してる人に対して愚弄したいだけじゃね?

“男尊女卑”って概念は、本来であれば、女性に比べて体力や知性があるという自惚れが生んだ誤解であり、女性が社会的な役割を“家族を守る”ことに集中させることを主眼に蔓延ってるトコがあり、要は男性としては“自由”でいたいだけの話である。家庭に縛られ、組織に縛られ、とにかく、杓子定規な人間関係を断ち切りたい割りに、それに似合うだけのスキルを“他人”に頼ってるのを、世間的に誤魔化したいから生まれた論理であり、宗教哲学の多くも、そこんトコを否定して“女性を大事にしろ”って指摘してるのに、ほぼ聖職者や為政者はガン無視してる訳である。なんせ、この輩は、自分自身の自尊心維持に勤しむあまりに、様々な部分で女性の存在そのものを“排除”した訳である。当然だが、女性に求めるモノは、自己の“快楽”や“ストレス発散”のための奴隷であり、女性もまた、そんな“弱い存在”の為の犠牲は甚仕方ない“宿命”としてきたのが、今日の誤解に繋がるのである。これは、ある意味有史以来の“呪縛”と言ってもおかしくない話である。

もっといえば、なんで男性社会が世界中でまかり通っているのかといえば、女性に対する価値観が、どこまでも“男性目線”で語られ続けているからであり、また、女性もそれに従わざる得なかったトコがある…正確にいえば、矢面に立つ男性の陰で、自分の意のままに社会を動かそうとする女性もいた訳であり、そういう女性が嫁さんだったりすると、当然だが“旦那”である男性は、“自分の嫁可愛い”で騙され、故に他の女性に対しても、ほぼ“同じ感覚”で取り扱う訳である…こういうと“女性軽視”の要因は、結局女性自身が作ってる様に見えるが、本質的にいえば、女性そのものを単一化して見てるからこそ悪いのであり、男性でも身体的ハンデから女性よりも体力がない人もいるし、成長過程での疾患(外傷性内臓疾患とか、栄養失調からのホルモンバランス崩壊による生理不順とか…)が因で、子供を作りたくても“作れない”人もいるし、中には体質的に(特に男性の精子)女児しか作れない夫婦だっている。そこんトコを全部“女性のせい”にして、男性“のみ”で社会を構築して、家庭内で“性処理用に飼う”という感覚で、女性の地位を潰してきた訳である。だから今でも、いわゆる“宗教原理主義”を標榜するテロリストは、事ある毎に知性に富んだ女性を“魔女狩り”してきた訳であり、また、それに似合うだけの報酬を得られる(=女性を大勢、家に監禁しても十分な)様、賃金体系もなってた訳である。しかし…それ故に困った事になる訳で、それは“女性でないとできない仕事”を、女性を排除した分だけ、男性もやらないといけない訳であり、その為の“犠牲”が出たのはいうまでもない。LGBTに関する“歴史”でも、特に俗に“ゲイ”と蔑まされてる男性の中には、性的興味が異性に向かなかったというより、ある意味強引に性的処理をやらされたことがきっかけでそうなった人もいる訳で、今でも幼少期のトラウマが因で苦しんでる人だっている。

話がいらん方へ逸れたんで元に戻せば、要は男性“だけ”で物事が回せたらラクだと考える人が未だに多く、本当に“自分がやりたいこと”に対する障壁の多くが“コレ”であることに気付いてない人が多いだけの話で、看護師や保育士、介護関係を“女性”に縛ってる背景にあるのも、要は男性の多くが“この職は女性のモノ”と押し付けてるトコがあるからであり、また女性の多くも男性看護師や保育士に対する不信感(特に性的被害に対する警戒心)が強過ぎることが一因になってるのです。根本的な部分での“不信感”が拭えない以上、いろんな意味での“男尊女卑”の状況が変わることはありません…そう、マスメディアが面白がって“事件”を取り上げる度、男性の介護・育児従事者が不当に叩かれ、また、女性の介護・育児従事者が悲鳴を挙げても世間が無視し続けるのも、“自分自身”がその立場の人から世話になっているにも関わらず、それが“当然”という態度で接しているからこそ、なにひとつ解決しないのです。

この話の最後に、今は亡き叔母の話を…彼女は長年、某市立病院で看護師をやっていて、婦長まで勤め上げた人である。伯父(=オトンの兄)がテーラー(自宅でオーダーメイドスーツの制作・販売)をやっていたこともあって、常に家には誰かがいる状況だったこともあり、夜勤で留守にすることも多かったし、オイラがオトンに連れられて家に行くと、夜勤明けなのにオイラや従兄弟に付き合って遊んでくれたりもした。でも、そのストレスは相当なモノで、現役時は煙くなるぐらいタバコをガンガン吸ってた記憶がある。(伯父も大概ヘヴィスモーカーだったがw)でも、問題なく子育てができたのは、伯父が“在宅勤務”であることと、近所に親戚(オイラの一族)や縁者が多かったことが大きい。特に近隣住民に顔が通るほど伯父は社交的な人だったこともあり、それ故に彼女は仕事に打ち込むことができたといっていい…母親としてやれることを満足にできたかどうかはオイラは知らないが、少なからずとも、従兄弟家族が家庭を持ち、孫の顔も見れたことは、一番の幸福だと思う。生涯にわたって看護師として働けたのは、周囲の理解と、そして旦那である伯父が不器用ながらも支えてくれたことにあると思う。そして何より、その背中を見て育った従兄弟は、整体師として働いている。辛い仕事でも、そこに“誇り”を持ってるなら、自ずと子孫はその跡を、何らかのカタチで継いで行く…純真な子供ほど、大人の所作をちゃんと見てるから、自ずと自分が進むべき道を選ぶことができる…それを潰す人程、過去において自分自身がそういう目に遭ってるからこそ、自分とは関係ない相手の“夢”を簡単に潰して自尊心を得ようとする。それがいかにみっともないか…今一度、自分を見直すべきではなかろうか?

“生産性”ってなんのこと?

LGBTに関する話で、どっかのドアホが“生産性がない”といって問題になってるが、正直言って、いろんな意味で生産性がないのは、今の日本の社会そのものであり、もっと言えば高学歴“のみ”を誇って暴言吐いてる連中自身だと、オイラは考える。なぜなら、性的マイノリティーな人でも、その感受性やセンスの良さから衣料品や生活雑貨で優れたデザインの製品を開発できる訳だし、ユーチューバーやSNS界隈でも人気のある人ほどコミュニケーション力は半端ない。そして何より、中卒でも処世術に長けた人ほど成功者になるのは、地道でも様々な知識を得るために恥を忍んで挑み続けてるからこそであって、そこに“共通”してるのは、どこまでも“相手を想う”という一点に尽きる。当然ながら、身障者(知的障害も含む)でもそのハンデ以上の活躍ができる人ほど、自分自身の立ち振る舞いに対して、細心の注意を払える訳であり、健常者でも、それができない時点で“お察し”なのである。

学歴至上主義に走った結果、結局、業務内容や必要最低限度のスキルが見合ってないのに、有名校やトップレベルの学位という“ネームバリュ”のみで雇ってるから支離滅裂になるのであって、本来であれば、就職希望者が“持ってるスキル”と、それに似合うだけの“業務内容”をマッチングさせることで業績は上がるモノであって、そこを無視した雇用情勢だと、離職者が増えたり、企業の技術力が低下するのは目に見えた話である。そもそも、そこに性的マイノリティーや出自なんて関係あるか?もし、それが“重要”だと考えているのであれば、生産性が上がらない理由もはっきりしてる訳で、要は使い勝手の悪さを他に求めるから拗れてるだけの話である。言い換えれば、功績を求めるあまりに失敗に対する“責任”を、とにかく“自分以外”にしとけば“傷付かない”という考えでやってる訳であり、そういう“誤った他力本願”な態度だから、ある者は“理不尽な鉄拳成敗”に怯え、またある者は“褒められたい”一心で上司の悪行に加担し、そして自分自身の“劣等感”をどうにかしたいから不特定多数の“弱者”を攻撃する訳である。

高学歴な著名人ほど、自分の“学歴”を振りかざして為政者や他の学者、識者の“失策”を叩くけど、そういう人ほど自分自身が“その立場”になった途端にボロが出る。いくら学業成績が優秀だろうが、名門私学出身だろうが、“その先”で他に学ぶべきスキルの習得とかに費やすべきトコを怠った上で、他人からそこんトコを指摘されるとムキになって“言葉”で反論する訳だが、そういう人ほど中身がない…そう、“実際の経験値”そのものが、RPGでいうトコの“レベル1”以下なのに、単に“頭エラい”で天狗になって、相手を見ずに殴ってる訳である。

“相手を想う”とは、それ即ち、自分の身の丈に合った立ち振る舞いをもって接する事であり、それは同じ“レベル1”でも分野が違う時点で話は変わるという事を失念してはいけない事でもある。同じ身障者でも、先天的なモノの人と、事故や病気が原因でそうなった人では“生活習慣”そのものが違う。先天的に欠落してる事自体が“普通”な人にとっちゃどうってことのない事でも、後天的な人にとっちゃ“同じことやれ”と言われてできるモノじゃない…分相応に訓練を必要となるからだ。同じ様に、出自が不明であっても、“同じ場所で戦う”以上は、対等なる存在として扱うのが礼儀であり、その結果に対して一切のイチャモンも付けてはならない。将棋界で“中学生プロ棋士”となった藤井聡太七段に対して、羽生善治名人が対局の際に手を抜くと思います?これと同じです。

高学歴・エリートであるほど、自分より“低レベル”な人が自分より地位が高いトコにいると、非常にムカつくらしい。が、なんで周囲が“自分を避ける”のかを理解してないと、どんなに他人より優れたる存在として崇めよと叫んだトコで、ウザがられるのがオチである。だって、単に自分の“過去”を褒めて欲しいだけで、“現在進行形は?”って問いに対して、何一つ答えられない時点で、他人からしたら“なんの価値もない”のです。だから“誰も相手にしない”のです。それに気付いた人ほど、今の自分の態度が、いかに“恥ずかしい行為”なのかと頭抱える訳です。そこから態度を改められるのであれば問題はないのですが…