迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“自作”ってのはタダじゃねぇんだよ!!

言葉を荒げて言わせてもらうが、如何なる“自作物”にも、著作権は存在するし、製作技術を習得するために、たとえ我流であっても修練のために結構な費用を注ぎ込んでやってる訳である。当然だが、制作費の中には原材料費や、機材のレンタル料等も含まれる訳であり、コレにプラスして手間賃を取るのは、業者じゃなくても通常は常識の範疇の話だ。

 

しかし…とあるテレビ番組でとんでもない情報を流したが為に、今、コミケなどで自作小物を制作・販売を行ってる作家が悲鳴を上げているという話を、SNSで散見される事態になっている。忘れちゃ困るが、材料費以外支払わないっていうなら、同じ素材をくれてやるから作ってみなって話であり、さっきも指摘した通り、如何なる物品も材料費以外のコストが上乗せされた状態で販売するのは、その“技術料”を利用者に対して徴収してるのであり、それは次回作を用意するための研究費として使われる部分である。言い方を変えれば、レストランに入って注文した料理を“安く食べたい”が為に、無断で厨房に入って、自分でその店の味を、そのまま再現できるかって話だ。

 

例えば、衣料品とて、家庭科で習う範疇の技術のみで簡単なモノなら作れるかもしれんが、その制作に使用する布地や型紙を“自作”で取り揃えられるのであれば、著作権無視して制作もできるだろうけど、そこまでの手間は素人では無理…だから手芸店で布地や毛糸玉を、あるいは縫製型紙の本を買ってきて、そこからカスタマイズするのが普通である以上は、そこに掛かる費用がどんなモノであるかを理解した上で文句を言うべきだろう。“消費税を取らない”と明言してる店舗でも、実際の価格には、材料費等に掛かった消費税が含まれている訳であり、勝手にそんな事(消費税徴収しない)をやれば、税務署がすっ飛んできますわw(もちろん、例外事案は存在するが、基本的に売上が一定額を超えた時点で、消費税分は、収益分に掛かる直接税とは別で徴収される。)

 

オイラが自作イラスト以外の壁紙やアイコンを使わないのも、著作権問題で他の作家とトラブルになることを避けたいからであり、完全なオリジナルとして自前で作った作品である以上は、どんな使い方をしようが、自分が“作者”である以上は、誰にも文句は言わせない…という姿勢でやってる訳である。これは同人作品でも一緒で、作者自身が“自分自身で使う分”であれば、どこで何に使うかってのは“作者の勝手”であり、もしそれに対して第三者が、あるいは知人が“欲しい”というのであれば、それこそ、分相応の制作費用を工面してやるのがスジであり、現金以外での取引であっても、それは“成立”する訳である。

 

6年ほど前に、御来光様がオイラのイラストを使用したいという連絡を受けた際に、相手が相手だから無償での利用を許可し、SNSの公式垢プロフィール画面のプヘッダとしておよそ1年間使われてたことがあったんだが、こん時の“使用料”は、直筆サインで納得している…これは、どこまでも“個人使用”という範疇だからこその話であり、企業として取引するような話であったなら、それはそれで話が別である。

 

作者・作家である以上、金銭的な取引が伴う契約の場合、相手側が値踏みした時点で“依頼を断る”のも一つの考えであり、それが因で仕事依頼が全く途絶えたとしても、気にする必要はない。“タダで仕事しろ”というオーダーを出してる時点で、制作現場をバカにしてる態度であり、自分で“作れない”から依頼してるのである以上、分相応の代償を払うのは、当然の話にならないといけないのであって、むしろ技術を無償でやるべきという日本人気質な風潮こそ、本気で改めなければいけない話ではなかろうか。

JBC京都開催で見えた、中央開催の“欠点”

今回は、“Shin’s Bar”でやる部分とは別で、しかも水曜更新のブロマガとの連動企画として、今年のJBCの“中央場所での開催”に関しての話を…売上や収容人員等を踏まえれば、京都競馬場での開催は、ある意味“しらける”内容だったとしか言えない。だが、それ故の“改善策”もある。こっちでは主に、なんでJBCが京都では盛り上がらなかったのかって部分を指摘しておこうと思う。

 

そもそも、JBC地方競馬の活性化策として創設された部分があり、先週のブロマガでも指摘した通り、スタンド収容人員が“少ない”競馬場だと、一瞬にしてオーバーキルになる“劇薬”なイベントである。しかし、開設当時から“全国持ち回り”での開催を謳っていながら、大井や川崎を中心に南関での開催が殆どなのは、コースの形状が多くの競馬場で、最大出走頭数自体が12頭が関の山であり、施行距離も2000m以上の設定がないトコがネックになってる訳である。

 

つまり、他場での開催を予定してても、大井、もしくは川崎と同規格でないと、開催誘致ができたとしても、期日までに改修して実施すること自体が“難しい”という訳である。まして、門別や岩手2場(盛岡と水沢)で開催するとなれば、時期的にレース数を減らさないと難しい…こうなると、必然的に“開催辞退”せざる得なくなる。(一応、盛岡で1回行われたが、当日のレース施行数が通常開催より、少ない状態だったと記憶してる)

 

では、中央開催でのJBCが、どうして“しらけた”内容になったか?要点を先に言えば、開催するには会場自体が、京都や東京だと“大き過ぎる”という事と、未だに中央開催は“芝がメイン”というイメージが強いからと言える。ここの部分に関しては、水曜更新のブロマガでしっかりやらせてもらうが、“会場選定”に絞って提言するなら、それこそ福島競馬場でやるべきだったと、オイラは考える。

 

てのも、北海道以外の中央の馬場で、“GⅠ開催”をやってないのは、実は福島と小倉の2場であり、新潟は中山の代替で2回、スプリンターズSをやってる実績がある…つまり、第3場としての開催競馬場で、毎年春秋にそれぞれ1回ずつ開催がある中京以外、まったくもってのレアケースである。故に、福島か小倉で“GⅠ開催”となれば、地元はもとより、ファンもメディアも注目が集まるだけでなく、遠方からの集客も見込める可能性がある。もっと言えば、それこそ“地域経済の活性化”を促す事が、開催意義の一つとして掲げられているのであれば、そこを活かす為に、敢えて中央開催の競馬場の中でも、キャパシティが小さい競馬場での開催にすべきだったという訳である。

 

また、どうせならココに、従来なら札幌か阪神でやってる騎手の腕を競い合うイベントも並行して行うべきであって、地方以外で騎乗機会の少ない、地方競馬の名手に呼び掛けて、中央の名手とチーム戦で競い合う事をやれば、更に内容の濃い、実に面白い開催になったと思われる。

 

こういった開催そのものを盛り上げるイベントが、何故か外部(競馬以外)に依存したモノで構成するからおかしくなる訳で、かなりバランスの悪い…鉄ネタに例えるなら、フル規格の新幹線車体が関空乗り入れの為に、在来線規格の台車で運行する様なモノである。(ミニ新幹線規格のE3やE6だと、輸送時に仮台車で川重の神戸工場から在来線で、秋田や山形に輸送するからともかく…)付随するイベントは、基本的には競馬に関心を持ってもらう為のきっかけ程度でいいんだが、京都でのイベントでは、どっちかと言ったら京都産農作物や畜産のPRがメインになり過ぎてた感が否めない。とはいえ、競馬法の規定によって、畜産振興の為という大義名分があるから、あながち間違いとは言えないが…

Shin's Bar へようこそ 神無月の一杯

シン(以下シ):まさか営業がここまでズレるとは思いませんでしたね…
潤:ま、マスター自身、未だ体力的に無茶できないというか、今までの無理がここに来て、一気に体の不調となって出たって感じっすから。
シ:以前からマーティさんに散々言われてたにも関わらず、暴飲暴食に運動不足、挙句は偏食…これで体調を崩さなかったのは、それこそ年齢的に若かったからであって、もう更年期障害があってもおかしくないですからね、今は。
(悪かったわね、BBAで。)
潤:いや…そこまで毒づかなくても…

(カランコロン…)

シ:っと、いらっしゃいませ。
潤:ようこそ、Shin's Barへ…

ギィ(以下ギ):よう…いよいよ来週だな。」
ノブ(以下ノ):せやな、10年ぶりの関西開催…JBCやな。
シ:あ、もうそんな時期ですか…って、今年は確か、京都での開催でしたね。
潤:え…でも淀は中央の馬場っすよ。なんで地方の祭典であるJBCが、淀での開催になったんっすか?
ギ:まあ…一番考えられるんは、園田でやるにはスタンドの耐震工事が間に合わないって事と、西日本の他の競馬場でやるには、手狭である事が要因にあるやろうな。しかも開催日時に設定推してしてる11月3日が週末やさかい、どうせなら日程をいイジるより、中央の馬場で…しかもフルゲートが16頭までイケるトコでの開催がエエやろうって事やろうな。
ノ:もっとも、府中や福島でやるって手もあったやろうけど、名古屋以西での開催そのものが園田以外やと難しいさかい、こういう措置になったと推察もできるんやけどな。
潤:でも、一日で3レースもGⅠを、しかも一ヶ所で集中開催するのって、中央だと初めての試みっすよね…
シ:過去に桜花賞と中山GJを同日開催した事があったけど、単一での開催形態では、これが初めてになりますね…現場は相当、忙しくなるかもしれませんねw
ノ:ほんで、当日は誰が取材に行くんや?
シ:一応、俺とオグりんで行う予定ですが…他に現場に行きたがってる人が多いんで、どうなるやらです。
ギ:せやろなぁ…かっちゃんにしろ、ハルトラにしろ、アポロン夫妻もやけど、マスターの周りは競馬好きの“生前さん”が多いさかい、これだけ面白そうな事があると言っても、直接見る事ができへん事自体、無茶苦茶歯痒いというか、悔しいよな。僕もそのクチやけど…w

 

潤:馬の方もそうじゃないかなぁ…オグりんだけじゃなく、京都に所縁あるライちゃんやテンちゃん、マコじぃとか…
シ:でも…一番この場で大騒ぎしたかったのは、潤ちゃんとごっちゃん自身じゃ…
潤:それ、僕には野暮な話っす…w

 

シ:では、今宵の一杯…今宵は“ハロウィン”という事で、ちょっと奇を衒ったモノを。コリンズグラスの淵をメープルシロップで湿らせてシナモンシュガーを付け、氷を詰めたシェイカーにコーヒー、ダークラム、メープルシロップ、クリームを2:1:1:1の割合で加えてシェイクしたら…ハロウィンエクスプレスです。オリジナルではエスプレッソを使用しますが、好みのコーヒーで作れる様、アレンジを変更してあります。

死生論を語る上で、幸福の価値観は基本理念。

“死んだら負け”とか“逃げたモン勝ち”とかいう概念じゃ、自殺もいじめも減る訳ない…個人レベルでの“幸福感”という価値観の下において、そんなモノは陳腐で他人事でしかない。だから、同じ自殺者でも、一見苦悩した姿に映っても、当事者自身が“安堵”を得るためにやったことである以上は、そこに至るまでの不幸を理解できてないと意味がない話であり、死生論に立って勝敗を決めつけること自体、結局は死者に対する生者の僻みでしかない。

 

“生きてるだけで丸儲け”なんて思念も、人生の苦難をも楽しめる余裕があってこそ言える言葉であり、苦楽を合わせて人生だと悟れる人には普通の概念でしかない。逆に、生きてること自体が苦でしかない者にとって“死”とは甘美な桃源郷であり、故に何度もイメージする…如何にして他人に悟られず、誰にも相手されずに消え逝く事ができるかと。

 

しかし、生老病死の理とは、常に“他人に迷惑をかける”という前提条件がある。新たな生命としてこの世に生まれ来る時、哺乳類であれば必ず、母となる者の肉体を傷つけながら、場合によっては、その命を奪って現れる。鳥でも、魚や虫でも、繁殖期はまさに命懸けであり、そこまでして生まれた生命であっても、次世代の者として生き残れるかどうかは、まさに運任せ…捕食者によって奪われる命もあれば、先天的な疾患や感染症で絶える命もある。その篩い分けを掻い潜って残された者だけが、歳を重ねて老いる事ができる。“永遠の命”と言われても、そこには限度がある…“魂のルフラン”の歌詞ではないが、“限りある永遠”とは、まさに生老病死の理そのもののサイクルである。

 

いかなる生物にも、終焉の時は来る…種としての終焉を遅らせるために繁殖行為がある訳で、そこを嫌えば、その血脈は途絶える。しかしそれは、自らの意思で選べるなら話は変わってくる訳であり、血脈自体も自分で“終わらせる”意思があってやってる分には、気にする必要はない…他人がガチャガチャ言ったトコで、当人が選んだ“幸福のカタチ”がそこにあるなら、それは“他人のやっかみ”でしかない。当然だが、子育てにしろ、介護にしろ、人それぞれの選択肢の下で決めた幸福のカタチがそこにあるなら、どこまで自分が“他人”に対して犠牲を払えるかということになる…つまり、“家族”として自分の人生を“我が子”や“両親”といった“血縁関係ある他人”に対し、どこまで時間的な余白を割り当てるかが問題であり、これが“夫婦”となると、完全に血縁も何もない“他人”同士での生活となる。故に、一緒にいる時間をどこまで共有し、別々でいる時間をどう割り当ててやるべきかをきちんと決められない様では、必ず行き詰まってしまう。

 

それが“苦痛”だと感じる程、現代社会は繊細で歪な状態になってる訳であり、だからこそ、自分自身の居場所がないと感じた時点で、既に自分自身の価値観を見失い、他人の価値観に振り回された挙句、疲弊する訳である。その結果による“自死”は、逃避ではなく安堵を得るための選択肢であり、自己の“絶対幸福”という価値観に基づいての答えである…それによって“誰か”が傷付くとしても、そんなのは当人に関係ない。だから、自殺者に中には、その死に顔が穏やかな表情だったりする事がある。それは、如何に“生きる事”自体が当人にとって苦痛であり、精神的にもしんどかったかを思い知らされる“決定的な証拠”である。大病を患い、治療の甲斐なく亡くなった人の表情でもそうだが、そこの“安堵感”がある限り、当人にとって“死”は不幸ではなく、辿り着けたゴールに対する“幸福の証”である。逆に言えば、どんなに長寿で大往生だったとしても、その死に顔が苦悩に歪んでいたら、“幸福な人生”とは言えない…自ら“死にたい”と願いながらも、勝手に死ぬ事すら“許されなかった者”の苦悩が、そのまま姿を現したモノとして、相に出るのである。

 

人生をやりきった人に年齢や人種、宗派的思想なんて関係ない…ただ“絶対的幸福”という共通理念の下において、本当に当人が納得した上での選択肢に、他人がどうこう文句言う必要などない。もし、天秤に掛けて物事を判断するなら、“自分にとっての幸福”と、“他人にとっての幸福”のどっちを“優先”すべきかを考えた上で論じるべきである…それにより生じる“不幸”を、自分自身が受け入れ、耐え忍ぶ事ができるのであれば。

“住みたい”と“好き”は別バナでして…w

今週のお題「好きな街」

 

オイラ的には、“街”よりも“地域”って感じで好きなのは、馬産地である北海道の日高地方…特に浦河町の町役場周辺の街並みは、結構メルヘンチックで好きな雰囲気なんだが、定住を考えると、冬場の生活環境が現在いる斑鳩の郷よりも厳しい事を踏まえると、ちょっと躊躇する。まず、タイヤチェーンを一人で取り付けできない時点で、話にならないし、医療機関に掛るとなると、クルマが使えない時点で話にならない。まして、生活必需品を買うとなれば、長期間の備蓄を踏まえた上での“買い出し”になるため、近所にコンビニがある実家と比べたら、かなり生活が厳しくなるのが目に見えている。

 

かといって、大阪や東京などの大都市が“住みたい”とも思わない…魅力的な場所は多いけど、“裏”を知っていると、実は結構“つまらない街”であり、いろいろ情報があっても、却って街としての魅力が色褪せる。

 

“便利”なことは良い事づくめのように聞こえがちだが、故の“不便さ”が見え隠れしてるトコがあり、そのバランスが悪いと、逆に生活の質がガタ落ちになる。もっと言えば、地域による特性を生かせていない行政区は、必然的に面白味のない、いろんな意味で退屈な街になる。逆に、様々な欠点や難儀な部分がある行政区ほど、その創意工夫が面白いのであり、他が真似できない様なことをやってるからこそ、外部(余所者)から見た時に“魅力”になる訳である。故に、自分好みの“理想的な街”だと余所者が感じて、“景観保持”を訴えると、変化を求める定住者から反発を喰らう訳であり、都市の再開発を行うにしても、その地域の“歴史的価値”がある建造物や遺構が“邪魔”だとして排斥されることになれば、それはそれでいろんな問題が出ることがある…特に災害関連の遺構は、後世に対する“教訓”として意図的に残そうと思っても、その威儀や理由があやふやだと、却って甚大な災害を招きかねない事案になる。

 

それでも、様々な意味で“魅力的な街”ってのは全国にあって、その中でも北海道の日高地方をオイラが好きでいられるのは、夏場の風景しか知らないからこそ言える訳であり、馬産地だからこその風景…周囲を見渡せば、いつでも馬がいる景色が“羨ましい”と思うほどの馬バカだからこその話であり、だからこそ、この斑鳩の郷でも再現できるのであればやってみたいという思いはある。けど、ひっくり返った考え方をすれば、“馬を飼う”という事は、必然的に旅好きにとって“旅行禁止の刑”になる訳で、これはこれで辛い…だから、観光客として日高を訪れるのは好きだし楽しいけど、定住となると、農業と漁業以外の職業が希薄な上に、公共交通機関が壊滅状態に近い状況下では“ノーサンキュー”な話である。ま、斑鳩の郷もそれに近い様な環境なんですけどねw

日本で自然再生エネルギーが定着しない理由…

浄土真宗本願寺派の僧侶が、檀家の減少による収入減を補うために、テラエナジーという電力会社(現時点では販売のみ)を立ち上げたという話があったんだが、基本コンセプトに関して、かなり大胆な挑戦をする意気込みには拍手はするものの、問題は、“自然再生エネルギー”のみで発電した電気を売るという部分…大凡は太陽光とバイオマスがメインでという話になるんだが、日本では大規模発電でそれをやるには、ちょいと“不向き”であることを理解した上で原発反対を掲げてもらわないと困る訳であり、そこんトコの説明を省くと、今回の話から逸れる事になる。

 

では、日本で“自然再生エネルギー”がなかなか定着しないのか?その一番の要因は、様々な“利権”が絡むからであり、また、そういう部分でのいざこざから来る開発の頓挫が、喫緊の課題なのに遅々として進まない一因になっている訳である。

 

根本的な問題として、様々な選択肢があっても、日本人の思考は基本、“単一規格・単一概念”である方がラクなトコがあって、故に“自然再生エネルギー”という概念の選択肢に対し、太陽光と風力ぐらいしか思いつかない人が多い。そのため、東日本大震災による津波が原因で福島第一原発が事故った事を受けて、太陽光発電パネルや発電用風車があちこちで、しかも厳密な地質や環境アセスメント等の調査もないまま急造していったモノだから、台風や長雨による土砂災害や暴風による影響で、次々と太陽光パネルや風車が潰れただけでなく、太陽光の場合、一度設置して太陽光に晒された状態になると、完全遮光しない限り発電し続けるため、破損したパネルを除去したくても、周辺に漏電してる状態になっていて、現場に近付く事もできないという、お粗末な話が散見された。また、集光率を高める目的で急斜面な山肌に、しかも無作為に設置してる事が多く、地盤が緩んで地滑りを起こすと、施設そのものがそのままスライドして近隣住宅地や高速道、線路を飲み込む事態になっていた。(事実、山陽新幹線の一部区間で、西日本豪雨と台風21号による地滑りで、線路脇の斜面に設置してた太陽光発電パネルが流入し、運行に支障をきたした件で、設置を許可した神戸市が、杜撰な施工業者相手にブチ切れた)

 

本来、自然再生エネルギーとして日本で注目すべきは、実は“地震大国”だからこそ湧き出る温泉を活用すべきなのに、なぜかここに手を付けない…その“理由”はすごく単純で、機器のメンテナンスが、他の発電方法と比べて“面倒”だからである。というのも、日本の温泉の多くは、塩化物(特に炭酸カルシウムや塩化ナトリウム)を大量に含むため、噴出時の高温が維持できたとしても、およそ数日で配管が動脈硬化の如く詰まる…有馬温泉の源泉でも、最低1週間に1度は全部の配管を交換しないと供給量を維持できないとされるため、これを発電施設で繰り返すとなれば、その度に発電を止めなければいけなくなる。これがすごく大変なのである。仮に、箱根の大涌谷に大規模な発電施設を作ったとした場合、強羅に排熱水を“温泉”として供給することは維持できても、発電用蒸気タービンに硫黄を含んだ塩化物が付着し、数日で使い物にならなくなるのは想像に硬い。また、単純泉(塩化物を含まない、いわゆる鉱水)であっても、日本の温泉の基準では、湧出時の水温が25℃以上あれば“温泉”と定義されるため、中には水温が低過ぎて発電に適さない源泉もある。ここを踏まえた上で温泉による発電を行うには、(国立公園として保護してる区域もあるため)厄介な問題を解決させなければ無理である。

 

バイオマス発電に関しても、基本は火力発電の燃料が化石燃料から切り替わるだけの話っぽく聞こえがちだが、問題は燃料供給のために起きる“矛盾”を理解してないと無意味である事…つまり、林業従事者のQOLの向上に繋がるのであればともかく、“安価な燃料”として間伐材や材木屑を大量に要求する様では本末転倒であり、また、メタンガスや排熱を利用する目的のみでサイレージ施設を改装するのも間違いである。バイオマスの本意は、あくまで“副産物の再活用”であって、食糧残渣や家畜の糞尿を発酵させて作る肥料の“副産物”としてメタンガスが発生する訳であり、更に発酵熱が生まれるのであり、そこを“再利用”する術としてやる分には、問題として気にする必要はない。当然、発酵技術によって燃料用アルコールや“バイオガソリン”と呼ばれる物質を作るのは結構な事だが、その“後処理”を考えて開発しなければ、結果として大気や土壌、河川(飲料用水)の汚染に繋がる。

 

革新的な技術があっても、その“欠点”のみを突いて潰す以上は、自らが責任を持って不便で窮屈な生活に従事せざる得ない。それを他人の所為にする時点で、無責任な話であり、それこそ“他力本願”の本意を履き違えた概念である。“他力本願”ってのは、自分ができる事全てをやり尽くした上で、それでも足りない部分、届かない部分をどうにかする為に協力を呼びかける事であり、手助けしてもらう事を指す。故に、単に他人に依存する事ではない…それが理解できない人程、言葉の意味を履き違えるのであり、故に哲学の多くが意図して歪むのです。

 

 

昨今の野菜ジュースは侮れない

今週のお題「最近おいしかったもの」

↑って訳で、以前の“トラBAR”感覚でネタを一本…w

 

 

市販の野菜ジュースと聞いて、皆さんなら速攻で、何を思い浮かべます?ド定番のトマト?フルーツミックス系?通販型チルド?乳酸菌配合粉末青汁?ホント、最近は種類や味が豊富で、目移りしますが、昔と違って、多くの製品は、いわゆる“野菜特有”の青臭さが少ない製品が主流でしたね。この背景にあるのは、ジュース用に品種改良された野菜が増えた事や、製造工程が大幅に変更された事などが要因として挙げられるかと思います。また、原料の品質が良くなったという事は、即ち、今までは何で青臭くて飲み難いモノだったのかを考えると、結局は原料である野菜の栽培方法の技術革新があったとみなすべきでもある訳です。

 

現在発売されているマトジュースは、大手メーカーの製品だとジュース専用に開発された、市販の生食用より小振りで、実のしまった感じの品種が使われています。これは、製造工程の際に加熱して、余分な水分を飛ばす時に栄養素の一部(特にビタミン類)が、どうしても抜けてしまうからです。これを少しでも残存させるために、わざと生食ではエグ味やクセの強い品種を使う事で、余分な添加物(抜けた栄養素)の補充をしなくても製造できるのです。しかし、それゆえの弱点として、どうしても青臭さが残ります。だから、他の野菜とのミッックスジュースにする場合、臭み消しと風味を和らげる目的で、レモン汁やリンゴジュースを混ぜる訳です。

 

これが、各地のJAから発売されてるトマトジュースの場合、多くの場合は生食用のトマトを流用してる事が多く、最もポピュラーな品種は“桃太郎”という、エグ味が少なく大粒な果実になるモノが使われてます…ただ、コレの欠点は、大きな実であるが故にジュースにすると水っぽさが目立ちます。だけど、飲み易さという点だけで言えば、JAのトマト産地生産ジュースの方が、生食用の消費を目的にしてるだけあって、変な雑味がないのが特徴といえます。

 

他の野菜ジュースで、昨今目にする様になったのは、ニンジン…セロリやミツバと同じセリ科の植物であるが故に、子供の頃は苦手だった人も多いのではと思いますが、最近の西洋ニンジン(横向き失礼…オグりんが咥えているコレ↓)

f:id:strayhorse:20181004180344j:plain

は、皮も薄くセリ科特有の青臭さも少なく、甘味の方が強いため、生でも美味しく食べられるモノが多いです。また、トマトやパプリカと同様に、カラフルな色合いの品種も出回っているため、同じニンジンジュースといえど、色以上に味も違う。

 

しかし、野菜ミクスジュースは今でも、青臭いモノがあるが、それをフォローするミックス素材として、レモン汁やリンゴジュース、昨今ではマンゴーが使われている。その原点は、オイラの記憶が正しければ、ヤクルトから出てた“きになるヤサイ”シリーズ…当時は3種類あって、シトラスセロリ(オレンジとセロリ)、パインキャロット(パインアップルとニンジン)、アップルトマト(リンゴとトマト)があったんだが、正直、臭み等を消すために薄味過ぎて、中途半端だったw だが、これがのちにカゴメの“野菜生活100”シリーズ”の登場に繋がる訳で、いわゆる“濃い味”系のミックスジュースにシフトしたことでブレイクする訳である。そして、野菜のみでのミッックスジュースで革命的なモノとして、伊藤園から“充実野菜”シリーズが登場した事によって、より野菜摂取量を補ってる感が強い製品が、一般的に好まれる様になった訳である。

 

ちなみに…野菜のみのミックスジュースや、トマトジュースがどうしても飲み難いという人は、カップポタージュスープ(コーンよりもジャガイモや茸がベターだが、そこは好みでw)やコンソメで割ってみることをオススメする…そもそも、野菜ミックスジュースは中南米ガスパチョがルーツになってるトコがあるんで、どうしても材料に使われるキュウリやセロリの青臭さが目立ちがち…また、トマトジュースを使ったカクテルの中には“ブラッティブル”というブラッティメアリーをビーフブイヨンで割ったレシピがあるぐらい、スープの塩味や肉の旨味と相性がいいんで、それで慣らしていった方が、とっつきやすいと思う。また、ミネストローネの時短レシピで、野菜ミックスジュースと加工肉(サラダチキンやベーコン)、水煮豆(最近はミックスビーンズとかがあるんで、それを活用)を一緒に耐熱容器にブチ込んでレンチンすれば、忙しい時間でもしっかり食べられる朝食が出来上がるw