迷馬の隠れ家 はてな本館

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サルでもわかる、任用御書学講座w その3

さて、今週もこの時間がやって参りました、任用試験受験者のための“余計なお世話w”講座。今回はズバリ、“日蓮”って誰?って話。ぶっちゃけた話、“鎌倉新仏教”と呼ばれる類の日本仏教の宗派である日蓮法華宗(通常は日蓮宗系と表記される宗派のこと)の開祖であり、この“破天荒坊主”がいないと、当然ながら創価学会も誕生しなかった訳である。日本史の授業で鎌倉時代の部分を扱う際には、必ず出てくる人物であると同時に、平安末期から続く仏教に対する不信感から出た“終末思想”を払拭するために鎌倉を奔走した“真面目な政治犯”でもありますw
今でこそ、日蓮仏法から発展した学会の理論は、世界中で認識される様になりましたが、そこに至るまでおよそ700年以上掛かったのは事実であり、その“障害”となったのは、単に日蓮自身の“身分”だけで片付く様なモンではありません。では、一体どんな僧侶だったのか…簡単にその生涯を振り返ってみましょう。

貞応元年(1222年)の2月16日、安房国長狭郡東条郷(あわのくにながさごおりとうじょうごう:現在の千葉県鴨川市小湊)の小さな漁村で、漁師の子として生まれてきた訳である。だから、時折御書の中でも自分の身分を“施陀羅(せんだら:貧民層)の子”と言って自虐してる訳であるw で、12歳で安房国清澄寺に入り、そこで教育を受けて“日本一の智者になる”と誓いを立て、いつしか仏法を極めて民衆を救う智慧を得ようと決心し、16歳で出家。清澄寺の道善房を師匠とし、最初は普通に念仏も唱えてた様です。しかし、京都や奈良、鎌倉の様々な寺院で遊学し、一切の教典を精読すると共に、各宗派の本質を検証し、その結果法華経こそ仏教における最強の教典であると確信し、自分自身が悟った妙法と合致するとして“南無妙法蓮華経”を広宣流布することが、末法における唯一の救済法と悟ったのです。
こうして、法華経弘通のために自分の命を懸けて戦うことを決意し、その覚悟の上で建長5年(1253年)4月28日の午の刻(正午前後)に清澄寺で念仏を破斫するとともに“南無妙法蓮華経”と唱えて“立宗宣言”をやらかす訳です。この時に“日蓮”という僧名を名乗ることになる訳で、意味合いとしては“日本の法華経の行者”を略したと推測できると思う。で、コレを聞いてた安房国の地頭・東条景信は、念仏信者であるが故に日蓮の“念仏批判”に対して激しく憤り、斬りつけようとしたんだが、この時はなんとか無事に逃げ切った訳です。で、その後、鎌倉まで出てきた日蓮は、名越の松葉ケ谷に拠点となる草庵を構え、ここから念仏や禅宗の邪義を破斫しながら布教活動に勤しむ訳で、この時に富木常忍四条金吾、池上兄弟が入信する訳です。
この頃、毎年の如く異常気象や震災等の天変地異が頻発し、それに伴う飢饉や伝染病の蔓延が深刻化していった訳で、この根本原因を追及し根絶する道を広く世間に訴えるために駿河国(現在の静岡県中央部)にある岩本実相寺で一切の教典を閲読。この際に後に継承者となる日興が日蓮の弟子としてついて行くことになる。で、文応元年(1260年)7月16日に鎌倉幕府の事実上最高権力者である北条時頼に“立正安国論”を提出…つまり初めての国主諌暁を行なった訳です。しかし、幕府幹部はまともに取り扱おうともせず、それどころか念仏信徒が要人達の内密を良い事に次々と迫害を加えていったのです。主だったものでも、松葉ケ谷の法難(文応元年:1260年8月27日に松葉ケ谷の草庵が襲撃を喰らう)、伊豆流罪(弘長元年:1261年5月12日に、松葉ケ谷のドタバタから一時鎌倉を離れた日蓮が戻ってきたコトを逮捕し、そのまま伊豆・伊東までポイ捨てw ちなみにその後、弘長3年:1263年に赦免)、小松原の法難(文永元年:1264年11月11日に安房国天津の工藤吉隆邸へ向かう途中、東条景信一派に襲撃され、弟子の鏡忍房と工藤吉隆が戦死、日蓮自身も左腕骨折と額を切る重傷を負う。)、そして、文永8年(1271年)の旱魃時にやった“雨乞い対戦”で日蓮に敗れた極楽寺良寛は、ちょうど幕府にゴロニャン状態だったのを良い事に、事実無根の罪をかぶせて、9月12日に侍所の所司である平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな:良寛とタッグ組んで悪巧みをした幕府役人)に捕らえさせ、亡き者にしようとやってのけたのが、俗にいう“竜の口の法難”ってヤツ。コレが失敗した(夜半に首チョンパしようとしたら、江ノ島方向から“光るモノ”が飛んできて中止したw)モンだから、幕府もどう処遇するか悩んだ末に、佐渡へ遠流させた訳だ。
ま、今日はここまで。あすは、この佐渡の生活から最後までやるべ。