迷馬の隠れ家 はてな本館

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サルでもわかる、任用御書学講座w その4

さて、今日は昨日の話の続き、“日蓮って誰?”の佐渡流罪以降の話っす。と、その前に、昨日の話で“竜の口の法難”でのが出てきたんだが、ココをすっ飛ばすと話がややっこしくなるんで、この時に“何が起きた”かをもうちょっと弄ってみようと思う。真夜中に首チョンパをやろうとして、竜の口まで引っ張り出したんだが、まったくもっての“謀叛人”扱いに、平左衛門尉相手に“正法誹謗は必ず自界叛逆(じかいほんぎゃく:要するにクーデター)と他国侵逼(たこくしんぴつ:要するに他国に攻め入られる)が起きる”と諌暁を試みるんだが、当然無視。その情報を聞きつけた四条金吾は、刑場へ向かう途中の日蓮について行き、刑執行と同時に自害するつもりだった。が、昨日の説明通り、直前になって周囲が明るくなるというハプニングに見舞われ、結局中止となる訳だ。その時に日蓮は、この大難を打ち破ったことが、自分自身の確信となり、これ以降“久遠元初自受用報身如来(くおんがんじょじじゅゆうほうしんにょらい:要するに仏としての境涯を開いた者)”という立場で布教活動することになるんだが、このことを“発迹顕本(ほっしゃくけんぽん:直訳すると“迹を発いて本を顕わす”という意味で、今までの平凡な自分から、出生の意義…つまりは本来の境地を示すという意味)”という訳である。で、そういう状態だから、鎌倉幕府も“日蓮殺害”を実行できなくなって、渋々(表向きだが)生かすために佐渡へふっ飛ばした訳である。

とりあえず、佐渡(の塚原)到着は文永8年(1271年)の11月。ココの三昧堂に放り込まれる訳だが、言わずもがな(温暖化が進んだ)今と違って、冬場は極寒の世界。当然だが“罪人”扱いなんで衣料はおろか食料も無い様な悲惨な状況なのはいうまでもなく、当然ながら念仏信徒がウヨウヨいる様な場所である。当然、“主人”無き鎌倉の日蓮信徒は謂れなき差別を受け、次々に退転するものが出た訳である。しかし、僅か150日後の文永9年(1272年)2月に、一番危惧していた“自界叛逆難”が発生(北条時輔の乱、別名:二月騒動)する訳である。
その半月ぐらい前に北陸・信越の諸宗の僧侶が佐渡の地元僧とともに、およそ数百人が日蓮のいる塚原に集結し、いわゆる“塚原問答”というヤツをやる訳である。ここでも躊躇することなく諸宗の謗法を破斫していき、コレがきっかけで阿仏房・千日尼夫妻等が日蓮の信徒となる。さらに、この佐渡の地で現在でも御書の中でも重要なモノを次々と著す訳であり、その中でも“人本尊開顕の書”とされる開目抄(文永9年2月に書いた)と、“法本尊開顕の書”とされる観心本尊抄(文永10年(1273年)4月に書いた。正式名称は“如来滅後五五百歳始観心本尊抄:にょらいめつごごごひゃくさいにはじまるかんじんのほんぞんしょう”う〜ん、長ったらしいタイトルだことw)は、日蓮系の宗教団体にとって、現在でも指針となってる部分。というのは、開目抄は日蓮こそが末法時代の救世主…もとい、末法衆生に対して主師親の三徳を具わった御本仏であるという事を綴っていて、観心本尊抄末法衆生が成仏するため受持すべき南無妙法蓮華経の本尊について解説してる訳である。
で、結局文永11年(1274年)2月、幕府の方が根負けして赦免。3月に鎌倉へ“帰還”する事になる。で、4月にもう一度、平左衛門尉に対面し、幕府主体で真言密教による蒙古調伏の祈祷が“邪”であると諌め、幕府側の質問に対して蒙古襲来は必ず年内に発生すると予言し、正法帰依を訴えた訳である。で“ご期待通り”というか、この予言がビンゴで、10月にとうとう“蒙古襲来”(文永の役)となった訳だ。
3回も国主諌暁を行なったのにも関わらず、幕府が無視し続けた事を受け、この後(文永11年:1274年の5月)甲斐国(現在の山梨県)の波木井郷にある身延山へ。この地は、日興の教化によって信徒になった波木井六郎実長が地頭として治めてたトコで、ココでも積極的に人材育成や信徒に対する指導を、更には遠方の信徒(特に佐渡の連中)に対して消息文(手紙)を書き続けた訳である。で、弟子の日興はというと、駿河国の富士方面を中心に着実に信徒を増やしていったんだが、コレで敵になってしまったのが天台宗の連中。そりゃ、自分トコの信徒を奪われた様なモンだから激昂するのは当たり前で、天台宗寺院から迫害を受けたのはいうまでもなく、その最たる“迫害”が弘安2年(1279年)に発生した“熱原の法難”である。その年の9月21日に無実の罪で熱原郷の農民信徒20人が逮捕され、平左衛門尉の私邸で拷問に等しい取り調べを受け、それでも信仰を捨てなかったとして代表格の神四郎・弥五郎・弥六郎の3兄弟が処刑(10月15日、一説によると翌年の4月8日)され、他の17人も本籍地からの追放が言い渡されるという事態となった。この農民信徒達の不惜身命の姿に日蓮も呼応し、ついに“出世の本懐”として、弘安2年10月12日に一閻浮提(=全世界中の生きとし生けるモノ)総与の大御本尊を建立する事になる訳である。
さて、弘安5年(1282年)の9月、日蓮は自分が説いた一切の法門を日興に付属し、これからの広宣流布の使命と責任を託し、療養するために弟子達の勧めで常陸国(現在でいうと、茨城県北部から福島県南東部あたり)へ向かう事となり、その途中の武蔵国池上(現在の東京都大田区)にある池上宗仲の屋敷に滞在して体力の回復を待ってた訳だが、既に体力が保たないと悟ってたからか、ココで今後について明確な方針を定めていったのです。そして弘安5年10月13日、改めて日興を身延山久遠寺別当(住職)と定め、(数え歳で)61年の生涯に幕を閉じたのです。ちなみに、身延での取り決めを“身延相承”と言い、池上邸でのやり取りが“池上相承”とされていて、いずれも日興が正当な“日蓮の後継者”として認証する御書となってます。