迷馬の隠れ家 はてな本館

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サルでもわかる、任用御書学講座w その5

本題に入る前に、ちょっと某掲示板の方で気になるネタがあったんで、ちょっと解説。某野党の一部議員が公明党批判で、創価学会から献金があったのではないかという“言い掛かり”をやってる様だが、そもそも一部の宗教団体に対して批判するのは、支持してくれてる他の宗教団体にも牙を剥く事と同じぐらい“愚行”であることは、宗教団体に属してるモンならわかるハズである。そう、こういうのを“恩知らず”の行為というのである。オイラ自身、そういう言い掛かりをするバカをたくさん見てきたんでわかるんだが、宗教に対して“無知”であることを通り越えて、“哀れ”としか言い様が無い。なぜなら、少なからずとも宗教団体を単なる“票田”としか見ていない価値観では、とてもじゃないが真っ当に官僚どもを管理する事などできる訳がない。
とまぁ、くだらん話は置いといて…今日のネタは、コレに関連してる部分でもある、日顕宗の話。以前のネタでもサラッとやった様に、そもそもこの“腐れ坊主集団”が創価学会の信徒を裏切った事から端を発するゴタゴタは、今回の任用試験でもバッチリ出る範囲であり、コレを理解してないと、今回の様な“アホのから騒ぎ”を笑う事ができないのである。

創価学会と宗門との関係は、創価学会創立時より常に二人三脚の関係でやってきて、特に戦後の経済難で喘いでいた宗門を、学会員の善意で立て直した訳である。しかし、宗門僧侶と学会員では、宗教に関する考え方にズレがあり、度々その事でいざこざが絶えなかったのはいうまでもなく、その度に学会側が宗門に対して一応、(相手の)体裁を保つために折れて、なんとか“和合僧”を維持していた訳である。が、1990年に、日顕が一方的に学会を切り捨て、学会員を宗門に隷属させようと画策した訳である。コレがいわゆる“創価学会C作戦”と呼ばれるヤツで、学会側は話し合いの席に着く様説得したにも拘らず、宗門は断固拒否。その翌年、ついに学会員全員を一方的に“破門”した訳である。しかし、宗門の手を離れた創価学会が、世界規模で発展していったのに対して、宗門はというと法華講(日顕宗の信徒)が、日顕の我侭に耐えきれす次々と逃げ出す始末で、当の日顕も2005年に法主の座を退くものの、その影響力が残ってる以上、信徒が大石寺に戻る事はありません。
その悪行三昧は惨憺たるモンで、まず、一方的な破門通告も、通常なら“その理由”を御書の引用や教義上の根拠を示して行なうモンなのに、ただ単純に“自分の言う事を聞かないからw”という我侭から発してるのであり、コレだけでも日蓮の意思(広宣流布の大願)を踏み躙ってるのは明白であり、学会員の救援がなければ発展しなかった日蓮仏法の恩に対して仇を成したのはいうまでもない。
しかも、“法主が一番エラいのだ!!”と抜かしたのは、当然ながら日蓮および日興の教義には一切なく、むしろ日興遺誡置文で“時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事”とバッサリと斬っとりやすw
日蓮生死一大事血脈抄の中で、“信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり”と指導してる通り、本来は信心をもって法華経の行者の“血脈”としている訳であり、ましてそれは、“日本国の一切衆生法華経を信ぜしめ仏に成る血脈を継がしめん”(生死一大事血脈抄)という通り、身分や立場は関係無く受け継がれるものと指導してます。それに背いて“選ばれし僧侶の特権”とする考えは、邪以外の何者でもないのはいうまでもありません。
また、僧侶による葬儀・法要などの化儀も、元々は江戸時代以降の“身元確認”の手段が僧侶の“金脈”に化けただけの話であって、来世で成仏するという一般的な念仏の“悪癖”に対して、日蓮は度々否定してます。それをことごとく“否定”した罪は、たとえ日蓮宗系宗教団体といえど、許されない行為です。まして、“僧侶が上で在家は下”という身分差別は、日蓮が最も嫌った事(一切衆生の救済と正反対の行為)であり、それを平気でやってのけた時点で、既に宗門は“日蓮門下”の名称を“返上した”も同然である訳です。
当然ですが、僧侶というのは元々、相手に対して謙虚であれと指導されているもの。しかし、この坊主どもは“少欲知足”どころか、信徒の浄財を湯水の如く豪遊に使いまくり、しかも真っ当な宗教団体なら行なってる慈善運動すらやってないという為体振りは、もはや宗教を喰いモノにした“詐欺師集団”そのものです。
だから、学会員は徹底してこの“法華経の敵”を叩く訳であり、それが仏法としての最大の責務です。御書にも“いかなる大膳をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし”とある様に、こういうバカは“放置厳禁”なのです。