迷馬の隠れ家 はてな本館

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サルでもわかる、任用御書学講座 その6の補足w

昨日のネタの補足っすw 多分、“転重軽受”とか、“願兼於業”の意味が、今ひとつわかってないだろうと思い、オイラなりの解釈ではあるが、ちょっとした“事例”をもって解説しようと思う。
まず、“転重軽受”ってのは、要するに一見最悪な状況に出くわしたと思っても、後々の苦労を考えれば“どうって事はない”と受け止める心境であり、その困難を乗り越えられるという自信を持つための考え方だと思ってくれたら、だいたいビンゴだと思う。言い方を換えれば、“ピンチの後にはチャンスがある”とか、“人生楽ありゃ苦もあるさw”ってヤツ。つまり、最悪の事態も自身の受け止め方次第では、別の方向へ進むためのきっかけにもなるという考え方。
例えばCRKの場合、12年前の阪神・淡路大震災がなければ、しかも現在の様な開発が行われなければ、今でも須磨に本社があって当然だろうけど、入ってる公団住宅の老朽化や、これからデジタル化が進んだ時に対応ができなかった可能性だってあるというモノ。逆に、あの震災があってスタジオが壊れたからこそ、ハーバーランドへの引っ越しというのもできた訳だし、明石海峡大橋による電波障害を考慮して送信アンテナを移設したから、最悪の事態を“回避”できたと考える事だってできる訳である。

で、“願兼於業”なんだけど、コレは昨日のネタで最後にチロっと書いたが、逸見アナや広瀬アナの“決断”ってのが一番わかりやすいであろう。つまり、故郷を捨てて知らない土地で骨を埋める覚悟で、その道を進んで究める姿こそ、まさに“願兼於業”なのである。この二人の“共通項”は何も、スキルス胃癌で亡くなった事だけじゃない。実は、(動機に関しては若干の違いはあるが…)彼等は各々アナウンサーになる事を決意した時点で、言葉に対する一切の妥協を排し、常に“誰からも愛され続ける声であること”にこだわった。その結果、逸見アナは“おもしろ真面目キャラ”が受け、広瀬アナは“正確でわかりやすい実況”で評判を呼んだ。そのために、他人には言い知れぬ苦労があり、それは時として自分自身を“傷付ける”行為でもあったに違いない。でも、そんなのは彼等にとって自ら望んで受け入れた事であり、それを何度も乗り越えたから尊いのであり、それ故に病魔に襲われたのが悔やまれるのである。(むしろ、それすら彼等は“穏やかに”受け入れていたのかも知れない…)
そう、一見難しい仏法用語でも、こういった事例で解説すると、意外とすんなりと理解できるというモノであり、また、こういった言葉を知ってると、同じ様な事例が発生したときに、その意味を感じ取る事も可能になる。コレが、“御書を体読する”という発想であり、当然ながら他の宗教でも言葉が違えども、同じ発想の教えは存在する。コレを理解できるかどうかは、結局のところ、宗教に関する正しい知識と宗教哲学の根源を理解する必要性がある。だから、創価学会にはすべての学会員を対象に、教学試験が実施される訳であり、それを通じて自分自身の“人生観”を学ぶきっかけを作っていく訳である。