迷馬の隠れ家 はてな本館

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あどランアーカイブ その48(なんで途中から茶屋町で制作したか?)


本題に入る前に、一部の利用者に警告。どんなアナだって、いわゆる“ハレンチ”は大なり小なりあります。が、男性アナならいざ知らず、女性アナのそういうネタは、報道されても無視するのがアナヲタとしての“礼儀”というもの。真実であっても、ファンならマスコミの報道で右往左往するのではなく、むしろ“そうでもしないと取材できなかったんだ…”と慰めてやる気持ちで見守ってやるのがスジ。それができないヤツは、自分が犯罪者になって、その後どんなに謝罪しても見下された気持ちを察してもらいたい。
ま、今回のネタとズレた話をした訳については後日(OFF会終了後ぐらいに)やるとして、今日は“あどラン”が千里丘から茶屋町に“移動”した背景について、わかる範囲で説明しよう。ご存知かとは思うが、千里丘時代と茶屋町時代の“ターニングポイント”となってる時期は、1990年の秋。9月いっぱいまでは千里丘で収録してたんだが、実は春先に、アナウンサー室そのものは茶屋町新社屋に既に引っ越してた状態だった訳である。

つまり、本来だったらセンバツ明けの春改編時に茶屋町で収録開始しててもよかった訳だが、当時はちょうどMBS開局40周年という節目の年で、そのメインイベントとして、本社の茶屋町移転が組み込まれていた訳である。
で、当初は千里丘はTV専用として、茶屋町はラジオと報道のみの扱いでスタジオを住み分けし、社員は全員茶屋町にデスクを置いて、番組制作時に合わせて千里丘と茶屋町をピストンする事になっていた。その為、アナ達は全員、“あどラン”収録の度に、千里丘まで全員がシャトルバス(現在でも、茶屋町USJの間を往復する社員用シャトルバスがある)移動するという事態になった訳である。しかし、コレでは緊急時の報道態勢に遅れを取る事になりかねないし、万が一に備えて留守番役を決めておいても、その担当者が“あどラン”のその日の主役だった場合フォローができない…そういった問題があった訳である。
が、茶屋町本社が稼働し始めた時は、ギャラクシーホールはスタジオとして使う事よりも、一般人が利用する“レンタルホール”としての利用を考えてたフシがあり、その為、スタジオの機能がありながら、大概は何らかのイベントの予定が入って、番組制作はおろか、放送機材が搬入できない状況が続いた訳である。
そこで、“あどラン”の収録に合わせて水曜日にホールの“休館日”を設けて、この日に収録できる様にシフトした訳である。で、開局記念番組がひと通り終了した頃から搬入を始め、10月の秋改編時から茶屋町での放送に切り替わった訳である。ただ、スタジオが千里丘のAスタ収録時にはやっていた視聴者のスタジオ見学は、茶屋町移転以降は、全く行われていなかった。(ま、それ以前に、スタジオ見学を申し込みを打ち切ってた為にそうなった訳だが…。)