迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

My favorite announcer vol.56

今日は特別2本立て。ここからは、“本業”のいつものアレで、いきましょうw
今月は久々に“あどラン”関連のネタも兼ねて、この方の話。MBSの“ひょうきん室長”といえば、御存知、藤本永治アナですねw 近頃のMBSアナファンには馴染みがないだろうが、千里丘時代の“あどラン”を御存知ならば、誰でも“ああ、あのオッサンかw”で通じます。今でこそ歳がトシですから、目立った活動を聞く事はありませんが、その昔…そう、民放ラジオの黎明時代には、それこそオールラウンダーとして活躍してました。ただ、同期や後輩に“スーパースター”がいたモンだから、地味な存在に感じられがちだった不遇さは、“ひょうきん室長”といわれる様になってからも、拭いきれないモノがありました。

“あどラン本”3冊目が発刊された頃には、既に定年を迎えてはいたんだが、それでも人気があった影響で2年程“引退延期”となった、MBS初の“専属パーソナリティ”的存在だった。その頃の写真を見ながら手元にある“鋼の錬金術師”の絵柄を見て、ふと思ったのが、キングブラッドレイ(=“憤怒”のラース)のコスプレが似合いそう…というぐらい、昭和の臭いがする姿であるw 確かに、新人時代の写真(“あどラン本”2冊目参照)を見てみるとわかるんだが、体型や髪型があまり変化していないのは、ある意味奇跡的な部類である。でも、実際その当時は、MBSがNJB新日本放送という名称でラジオ放送をやっていた頃であり、民放の黎明期だったからこその苦労話は尽きない。特に、現在の様に情報があらゆる所から入手できる時代じゃなかったから、東京生まれの彼には、大阪は“見慣れぬ土地”そのものだった。だから、新人時代は阪急百貨店の屋上にあったスタジオの窓から見える大阪駅を見ながら、何度も“東京に帰りたい…”と思ってた頃があったという。
でも、ラジオしかなかった時代故に、喋りに関しての感度は、相当鍛え込まれた訳で、当時はNHKのOBを“師匠”として迎えては、徹底的に放送用のアナウンス技術を叩き込まれた。戦前生まれの人ですから、“アナウンサー”といえばNHK以外いなかった訳で、憧れのアナウンサーになりたい一心で民放が開局する事を、心待ちにしていた一人である。だから、開局して間もなかったNJBに入社した訳で…だからこそ、あらゆるジャンルの番組での活躍があった訳であり、中にはリスナーポイント50%オーバーの担当番組もある程の人気者になっていったのである。しかし、スポーツ実況に関しては、どうもセンスがなかった様で、後に後輩の井上光央アナにお株をとられてしまうハメになる。とはいえ、コレによって、“アナとして”の住み分けされたから互いに切磋琢磨できた訳で、同期の小池清アナとともに、NJBを支える若手の代表格となっていった訳である。
しかし時代は時として、残酷な格差を生み出す結果をもたらす。それは、OTV開局以降もくすぶっていた、テレビ放送免許取得問題である。そもそもABCと“呉越同舟”で開局させた放送局故に、双方の関係者が何度も喧嘩して、その度に番組制作にも影響が出始めていた。そして、今から50年前の3月、その前年から社名を現在のMBSに改め、テレビ放送を開始したのである。この辺りから、小池アナと藤本アナとの間に、目には見えない格差が生まれてくる様になる。その最たるモノが、“アップダウンクイズ”の放送開始である。そして、小池アナはこの番組の看板MCとして長年活躍する事になるんだが、逆に藤本アナは徐々にテレビから姿を消す様になっていった。人気の低落に更に追い討ちをかけたのが、後に“MBSの革命児”となる努兄の入社である。こうして、ラジオスターとして輝いた時代は、デスク業務を請け負う立場と引き換えに、終焉を迎える事となる。
だが、その悶々とした日々に終止符を打ったのが、今から25年前の“あどラン”放送開始である。最初はセンバツまでの“テストケース番組”扱いでの放送だったのだが、かつてのファンが番組を見て懐かしんでくれた事がきっかけで、また、若い世代に自分を知ってもらえるチャンスを与えられた事によって、再び人気が出始めたのである。そして、“コアなファンの底力”を感じた小池アナは、“アップダウンクイズ”の3,000回放送を区切りにアナウンス業務から引退し、アナウンサー達もまとめ役である室長の座を譲ったのである。これ以降、高梨欣也アナに座を譲り、完全に退社するまでの間、“あどラン”とシンクロするかの様に“人気復権”を果たす事となる。
デスク業務に従事するアナが、“現場復帰”するケースは稀な話だが、MBSのアナ達はこの番組がきっかけで、肩書き上の“デスクマン”でも、番組に出る権利を獲得した訳であり、更には定年後も“専属パーソナリティー”という肩書きで居残るケースもできた。その功罪は、MBSの番組を見聞きしている方なら、御存知の通りだろう。もちろん、きっかけを作ったのは努兄だが、何故か張本人はそれをしなかった。逆に、乗せられた藤本アナや他の連中は、まだ現役でいたいが為に、若手の仕事を、尽く掻っ払っていった。その影響は、現在のMBSアナの“話術”の技術面で出ている。とはいえ、“あどラン”をやっていた当時MBSが、他局を圧倒して人気放送局になったのは事実であり、その中での一番安定した人気を誇っていたのは、いうまでもなく藤本アナ自身なのは、オイラ自身も認めている部分だ。