迷馬の隠れ家 はてな本館

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オグリとユタカorアンカツ

オグリン初七日企画(?)もいよいよオーラスw 今回は、やはり避けては通れない主戦騎手の話。よく勘違いされるネタに、アンカツ笠松時代の主戦だったというのがあるが、当初はそういうつもりはなかったそうな。というのも、元々、鷲見厩舎所属の高橋騎手を主戦騎手として据えるつもりだったのだが、様々な事情(研修とか、乗ると負けるとか…)を経て、アンカツになっただけの話である。そもそも、アンカツ自身、17歳でデビュー後、中央へ移籍するまで、常に笠松競馬のリーディング上位にいて、オグリン騎乗時には、1,500勝を達成していた程の腕である。だからこそ、法改正で笠松の馬が中央に出走する際ある程度の実績を残し、翌週以降の騎乗依頼に対応できる様にしていたという。
閑話休題、要するに、オグリンに乗っていなかったら、中央へ移籍する様な事もなかったし、今でも笠松のリーディング1位をキープしていただろうと思われる。

そしてもうひとつ、中央での“主戦”が、よくユタカと間違われる事であろう。敢えて言っておくが、ユタカがオグリンに乗ったのは、5歳時の安田記念とラストランの有馬記念のみで、それ以外は、他の騎手が手綱を持っていた。
まず、中央移籍後の3歳は、京都4歳特別(現在の京都新聞杯、年齢は旧表記)と有馬記念以外は河内洋騎手(現:調教師)が手綱を取り、京都4歳特別の時は、同日にNHK杯(現在のNHKマイルC)でサッカーボーイに騎乗する事もあって、南井克巳騎手(現:調教師)に、有馬記念の時も、サッカーボーイ騎乗のため、岡部幸雄騎手の“テン乗り”という状態だった訳である。まして、南井騎手は当時、同じ葦毛のタマモクロスに騎乗していた為、この時はオグリンの“敵”だった訳である。しかし、タマモクロスはこの有馬で引退が決まっていた為、翌年から南井騎手が手綱を取った訳である。では、ユタカは当時、何に乗っていたかというと、後にオグリンとは永遠のライバルとされたスーパークリークに騎乗してて、この馬で菊花賞を制して以降、更に注目される存在へとなっていった訳である。
ユタカの生い立ちを、今更説明するのもなんだが…父親が“ターフの魔術師”といわれた武邦彦調教師(現在は引退)で、そのDNAを受け継いでいる影響もあって、一流馬に乗せれば、必ず賞金を稼いでくれる事から、デビューから多くの馬主から絶大な信頼を得ていた。それでいて、普段からの純朴好青年振りは、様々なシーンで騎手である事を忘れさせる程の魅力でもあった。しかも、170cmという身長は、騎手としては大き過ぎる体形なのに、50kg前後で体重をキープできる事も、ある意味ダイエッターの鏡みたいな存在である。(ま、その弊害として、一度骨折するとエラい目に遭う訳なんだが…)
話を元に戻すが、当時世間では、オグリンとユタカは同列で扱われる事が多く、それ故にライトユーザーは、オグリンとユタカのコラボを期待していた。しかし、同世代のスーパークリークの主戦騎手であった事もあり、同じレースにスーパークリークが出ていると、そっちが優先となってしまう訳である。だけど、ライトユーザーにしてみれば、一度でいいからこの臓ドリームタッグ臓を見てみたいという願望がある訳で、コレを叶えたいと、オーナーも常々考えていた訳である。で、どうすればいいか考えているうちに、ひとつの“ヒント”が浮かんで来たのである。そう、オグリンの“適性距離”である。
オグリンの血統的背景を考えると、1,800m以上は本来“走れない”距離である…つまり、基本的にはマイラーであって、展開や馬場状態などの他件がハマると、2,000m以上の距離をもこなせるという器用さがあった訳である。しかも、アスリートとしての身体能力で、最も重要視される心肺機能が非常に丈夫で、スタミナに関しても、長距離輸送でも馬体減りしない体質だったこともあって、どんなレースでも対応できたという訳である。そこで、スーパークリークの“距離適性”が、2,200m以上の長距離に集中している事に着目し、オグリンの適距離であるマイル戦にユタカを乗せようという方向へ定まった訳である。とはいえ、そのためには騎乗依頼を先に取っておく必要性があって、当時ですら、障害戦以外での騎乗依頼が、東西どちらでもすべて埋まってしまう程の人気だった事もあり、その調整が難しかったのはいうまでもない。かくして、スーパークリークとスケジュールがカブらず、尚かつ多くのファンが見守る春のG1戦線で、最も相応しいレースとして、安田記念が選ばれた訳である。
ただ、当初は4歳で有馬記念連覇をもって引退させるつもりが、5着に終わった事を受けての“引退延長”という皮肉が、このコンビを作らせたともいえ、それ故に、多くの競馬記者からオーナーサイドに批判の声が上がったが、ユタカが結果を残したモンだから、余計にオグリンは注目される馬になってしまった。そして、調子に乗って宝塚記念に出走登録をやったモンだから、スーパークリークとカブってしまい、この時に今は亡き岡潤一郎騎手が、オグリンの手綱を取った訳である。(生前、本人はこのレースでオグリンを勝たせてやれなかった事を、相当悔やんでいた。)
そして、秋は増沢末夫騎手(現:調教師)が今季限りで引退を表明した事を受けて、秋天とJCに騎乗依頼したのだが…この時オグリンは、自律神経失調症ともいえる状態に陥り、本来のパフォーマンスにほど遠い状態になっていた。関係者自身も、あまりにもバカ騒ぎし過ぎるメディアにうんざりしていて、取材を拒否するだけでなく、オグリンの馬房への立ち入りを、一切禁じてしまったのである。この事を受け、マスコミもファンも、“オグリは終わった”と思っていた。が、スーパークリーク秋天を前に引退し、丁度有馬記念に騎乗依頼がなく、フリー状態になっていたユタカが、ラストランの騎乗に快諾した事を受け、“ドリームタッグ”は再び組まれる事となる訳である。そして…あの感動的な(一部の造ねくれ者からは、八百長とみなされている)ラストランへとなった訳である。
こうして、オグリンは有終の美を飾り、ユタカはJRAを代表とする一流ジョッキーに成長し、アンカツは後に、ライデンリーダー牝馬クラシックを賑やかし、法改定を待って地方騎手の中央移籍第一号として、その歴史を残すものとなった訳である。