迷馬の隠れ家 はてな本館

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何故、真弓阪神はボコ負けしたのかw〜勝負師と指揮官としての心得〜



昨日、甲子園まで行ってきた。ま、言う迄もないのだが、オイラはダメ猫…もとい、阪神の公式戦(交流戦&CS含む)では、特に甲子園での試合は、何故か勝率“0%”という脅威の逆神振りを発揮する体質であるw(同伴したマーティが、思いっきりショボける程っすw)
当然、今回の試合も、初回にボコボコにされていたのに、我が兎が負ける気がしなかった。特に7回以降、完全に空気の流れが、しかも、はっきりとわかる位に変わった訳で…

さて、ここからが本題。実は、真弓監督自身、本人は気付いていないが、明らかな“戦略ミス”をこの時点でやらかしているのである。そこを、原監督は見抜いていて、スターティングから“負け試合”を想定した上での布陣で試合を始めた訳である。その“ミス”とは…オイラ自身、素人だから、プロ野球の球団運営にどうこう言える立場じゃねぇが、あからさまにわかる事を3つ。
ひとつは、選手を“信じていない”…言い換えれば、立場上だけで見下しているから、信用を失っているという事。ドラの落合監督の“放任主義”とは、即ち、選手自身の“持てる力”そのものを信じているからこそ成り立つのであって、また、“勝つため”に記録が掛かろうともなんだろうと、冷徹に、且つ、確実に采配を振るっているからこそ、チームそのものが団結できるという訳である。そう、“強い組織”とは、学会風にいえば“異体同心”であり、そこには確固たる絆が存在する。つまり、7回の時点で久保を降ろす必要性がない(好投を続けて、尚かつ4点差付いていた)のに、急に調子の悪いリリーフ陣(特に藤川)を登板させた時点で、勝ち試合を自らの手で捨てた様なモンである。
ふたつ目は、既成概念に頼り過ぎている事である。よくある話で、2,000mの芝コースのレースを得意とする競走馬がいても、その“条件”は必ずしも当てはまるとは限らないという事。つまり、府中や中京の様な左回りなのか、淀や仁川の様な右回りなのか、馬場コンディションがパンパンの高速良馬場なのか、ズブズブの鈍足不良馬場なのかでも、結果が違ってくるし、まして同じ競馬場でも、新馬戦とG1では、データそのものがまったく別次元の話になってくる。それと同じで、ペナントシーズンの状態と、短期決戦である交流戦やCS、日本シリーズでは、戦略そのものを、大幅に見直さなければいけない。つまり、“勝利の方程式”に頼り過ぎて、肝心な場面でミスが連発したのは、目の前を“見ていない証拠”でもある。
そして最後のひとつが、試合そのものを、ファンと一緒に“楽しんでいない”事である。ヒルマン監督時代の公熊が、ある意味での“常勝軍団”と成り得たのも、北海道へ移転した際の苦労が結実した事に端を発する訳である。つまり、その時に日本球界へ復帰した新庄の“みんなで野球を楽しもう”という意識そのものが、ヒルマン監督が目指すスタイルと一致したからこそであり、それを上手い具合に、梨田監督以下指揮系統と、森本以下の選手全員、そして地元の北海道のファン(ついでに、マスコットのB☆B)が継承していき、今日の姿がある。(ま、今年はいろんな意味で残念だったが…)オグリキャップで熱くなれたのも、オグリ自身の魅力はもちろん、競馬界全体が熱狂の渦に巻き込まれ、そして多くのファンがそこに集い、共感し得た事だからこそ、語り継がれるのであって、アパパネの三冠が霞むのは、特定の馬主の野望が、ある意味出来レース状態で達成した事が、関心を薄れさせているのである。これと同じで、フロント…つまりオーナーが、ゴチャゴチャ言い過ぎて、どんな風に野球全体を盛り上げようかという部分を阻害してる事が、ファンを激昂させる一因になっている訳であり、それが指揮系統を大幅に狂わせているという“事実”がある。言い方を変えれば、矢野の代わりにマスクを被らせるのは、本来なら加納あたりが適任であって、メジャーを事実上追い出された城島を、無理矢理加入させている時点で、一部の投手陣と反りが合わなくてギクシャクしてしまう訳である。
つまり、指揮官自身が、いろんな意味で“エエ加減”だったからこそ、この成績(ペナント2位で、CSファーストで惨敗)なのであり、それ故に選手も、そしてファンもやる気をなくした…という訳である。
忘れてはいけないが、選手の個々を活かすには、時として残忍な決断も必要である。そして、その結果に対して、真摯に受け止められてこそ、初めて指揮官としての価値が問われるのである。そして、良き指揮官を育てるのは、実は現場の、しかも最前線で活動している者自身であり、いかなる困難があっても、先陣をきって、仲間と一緒に乗り越えようと呼びかけていく事が肝心な部分である。