迷馬の隠れ家 はてな本館

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臆病者程、巨大なチカラを欲す。

今から53年前…ま、シンちゃんの“生前さん”が生まれた頃、創価学会の二代会長、戸田城聖は、三ツ沢球技場原水爆禁止宣言を、誰よりも早い段階で訴えた。しかし、昨今の論調では、この宣言も虚しく、核配備を求める声が挙がっている。だが、ちょっと待って欲しい。核を保有する国々の、その殆どは、“何に怯えている”のかを、世間は、あまりにも知らなさ過ぎる。そう、それは隣人が持つ核が、何らかの事情で“暴走”した際に、それを防ぐ手立てがないからこそ、“目には目を…”という法則で配備してるだけに過ぎない。つまり、国際間での“人間不信”が具現化した姿なのが、今日の核兵器の現状であり、全廃する勇気すらないからこそ、対応策としての“核配備”という訳である。

そもそも、核兵器の開発そのものは、ナチス統制下のドイツが研究してたモノであり、それを実用化…というか、実践で使っちまったのがアメリカなのである。しかも当初は、東京や大阪の様な大都市に投下する予定だったが、既に何度も爆撃を行って焼け野原だった事と、天候が悪かった事もあって、結局広島と長崎に1つずつ、タイプの違う原爆(広島型はウラン、長崎型はプルトニウム)を投下したのである。ここで一応の成果を見出した(トドメの一撃として有効であり、相手に無条件降伏を要求する事ができた)事によって、アメリカはその後、当時の共産圏…特に当時のソ連軍との戦争に備えて、核の配備を急がせたのである。しかし、ソ連も同じ考え方をしてた訳で、当然ながら核兵器の開発、および長距離弾道ミサイルの開発を急がせた訳である。これによって、米ソは“冷戦時代”を迎える訳である。(で、そこに至るまでに、朝鮮戦争ベトナム戦争があった訳で、更に、アフガニスタンの紛争も激化した…)
そして、アメリカは原爆よりもより破壊力のある兵器…いわゆる水爆(水素原子爆弾)を開発する訳である。この実験がビキニ環礁で行われ、その海域に何も知らずに操業していた日本の漁船が巻き込まれた…コレが、第五福竜丸事件というヤツである。(実際は安全区域とされたエリアにいたにも拘らず、予想を遥かに超える破壊力があった為、また、定置網を引き上げるのに手間取って、退避が遅れた事が、最悪の事態を招いた。)そして、これが後に戸田城聖の“原水爆禁止宣言”へ繋がる訳である。
だけど、この半世紀の間に、国連の常任理事国全てが核を保有する様になり、ましてインドやパキスタン、あまつさえイランや北朝鮮までもが核を配備しようとしている…コレは何を意味してるか?そう、世界中が“人間不信”に陥った、厳然なる“証拠”である。日本が三度も被ばくし、“非核三原則(核を作らない・持たない・持ち込ませない)”を訴えているにも関わらず、そしてそれらを守っているにも関わらず…である。
忘れてはいけない、強いチカラは時として、それを保有する者を不幸に陥れる事にもなるという事を。そして、それらを使わずに済ませたいなら、勇気を持って廃棄する事が肝心である。誰かが先じゃなく、自分自身で…だ。ところが、一度手にした強大なチカラを、自分の手元で保ち続けたいを思うのが、人間に深層心理には、必ず存在する。コレが時として災いを為す。コレを如何にコントロールするかは、自らの良心に委ねられている。しかし、臆病さ故に、強いチカラを欲し、それに頼って縋るのである。それはまさに、“他力本願”の姿そのものである。
確かに、財産や軍事力は重要かもしれないが、それに頼り過ぎると、それこそ本当にそればっかりに囚われて、結果、本当に大事なモノを失う事になる。それは家族だったり、親友だったり、故郷だったり…何を失うかは、それこそ“その時”でないとわからない。だけど、表面上のチカラなど、結局は破壊しかもたらさない。一番自分が“大事”だと思う事は、失ってからでは取り戻す事などできない。本当に大切な事とは、自らを犠牲にしてまでも守りたい“宝物”を、何に求めるかで決まる。だから、民主党の連中が、折角手に入れた“肩書き”を守りたいから、国民を犠牲にするのであって、肝心な事を忘れた哀れな姿なのである。それを選んだのは、いうまでもなく国民自身であり、自分自身で“宝物”を捨ててしまったからこそ、この息苦しい閉塞感の中でもがく事になるのである。
何度も言うが、自分達が蒔いた種だ。自分達でけじめを付けて、寸志を改めない限り、何も改善される事はない。むしろ、悪化するばかりだ。カルトだ平和ボケだと罵るのは、大いに結構。だが、それを罵るヒマがあるなら、まずは相手が何をしてるかを見て、それを察して、自分にできる最善の方法を施してやる事だ。どんな些細な事でも、それは時として、核兵器よりも威力のある“武器”になる…。