迷馬の隠れ家 はてな本館

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私怨は亡国の引金を引く…

ネットでの情報なんで何とも言えないが…先の衆院選の“影”には、やはり“アンチ創価”の宗教団体による、宗派を超えたネガキャンがあった様である。で、その中心が、立正佼成会であるならば、彼等はとんでもない事をやらかした事になる。そう、結果として今の政権がグダグダなのは、“創価学会を潰したい”一心で活動し、一定の成果があったのはいいが、その先をまったく考えていなかったが為に、国家の基盤すら揺らいでしまう程の不安定さを露呈した…という事である。

よくある話で、大ボスの“個人的な恨み”に組織が振り回された挙げ句、その取り巻きの一人に裏切られ、結果、組織の指揮系統が乱れた事を端に発して滅亡する…というアレと同じである。
つまり、忌むべき相手を駆逐できたとしても、それは時として、国家基盤を支える分野のスペシャリストだったとすると、その損益は計り知れない。仮に、そいつの“代役”を務める事ができても、素人の考えとプロでは仕事の内容が違う。逆を言えば、素人でもできる様な分野は、実際はどうでもいい部分であって、専門知識や技術が必要な分野は、たとえ普段は必要ない分野であっても、疎かにしてはいけない部分である。自衛隊もそうだし、警察や司法もまた然りである。
宗教も同じで、いくら“カルト教団”から家族を取り戻したかったからと言って、強引な方法で宗教施設を襲ったり、家族を傷付ける様では、むしろ自分自身が“同じ穴の狢”状態である事に気付かないのと同じである。そう、相手を罵った時点で、自分自身も“同じ”なのである。どうしても取り返したいと思うのであれば、逆の“幸福論”を導かざる得ない。つまり、自分自身が家族との縁を切るか、自分がその“カルト団体”に入会するかである。
“幸福になりたい”という願いは、誰しもが持っている感情であり、共通認識だ。しかし、その“幸福”とは、まさに十人十色であって、答えそのものは1つではない。つまり、それだけ分無限に答えがあって、それをどう選ぶかは、自分自身の判断ひとつである。当然だが、選択肢の中には、今までの平穏な生活と引き換えにしなければ得られない快楽もあり、逆に今までの快楽を捨てなければ得られない愛情もある。そこんトコを忘れて、ああだこうだと言っても、それは話が破綻してるのと同じである。
そう、どんなにこの世から創価学会の存在を消滅させようと思っても、それをやった途端に、自分達もその分の“代償”を払わなければならないだけであり、それ故に自分が住む場所や国が滅亡しても、文句は言えない。つまり、本当の意味での“幸福”は、その存在を認めた上で“喧嘩する”事であって、相手を否定した上で消去しようモノならば、当然、自分達も滅びる事になる。
ぶっちゃけた話、“衰亡”や“死”は、“生”や“繁栄”がある限り必然的に訪れるモノであって、そんなモノを自らが願う必要はない。むしろ、それを願ってしまうのは、愚者の考えだ。真の賢者は、死ぬまでの間に“生きる事を楽しむ”というスタンスで考えるモノである。つまり、私怨に囚われて、傍若無人を働くならば、自分の人生を棒に振ったとしても、文句は言えないのである。