迷馬の隠れ家 はてな本館

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他者の“痛み”を知らぬは“哀れ”なり…

さて、“有害図書”関連の法案が、都議会で可決されっちまった訳だが、そこで嘆く必要はない。むしろ、こんな事までしないと、自分を制御できないほど“人間不信”になったんだと、思えば良い。むしろ、こういった法案は、時代とともに廃れるのがオチであって、結局は犯罪を抑制するどことか、今まで闇に隠れていた犯罪が暴露されるだけで、何の意味もない。それより、税金の無駄遣いが増えるだけである。そろそろ気付いた方が良いが、憲法における“表現の自由”の保障を踏みにじったのは、結局は自分達自身だという事…そう、こういう規制の行き先は、かつての“治安維持”に名を借りた“異端者排除”という轍を踏む事だという事だ。

つまり、石原都知事は、今の自分が、かつての自分を苦しめた立場の者になってしまった事に、まったく気付いていないのだ。これは、オイラの職場でも同じ。上司だからとか、先輩だからとかとエラそばてるモンにとって、後輩や同僚は自分を映し出してる“鏡”だという事に気付いていない。だから、注意する時でも、指示を出す時でも、自分の都合のいい様な事はいうが、“相手”を考えていないから意に反する行動をすれば、たとえ効率のいい仕事をやっていても、それを批判してしまうのである。つまり、“異端者”の正体は、自分にとって“都合の悪い存在”という概念から生まれた、憎悪の姿が鏡に映っているだけの話であって、逆を言えば、自分がその立場の人間だった場合、それが不服なのである。
特に、性同一性障害(トランスジェンダー)や、性癖で異性に敵意を持ち過ぎている精神障害者に対して、“気持ち悪い”とほざいた訳である。ま、言わんとする理由はわからなくはないが、そこを批判してはいけない。むしろ、その“性格”故に勝ち得た知識や技能を活かせるかどうかは本人次第であって、そこを支援してやれば、健常者以上に働いてくれる…否、むしろ、そういう“才能”を批判した時点で、劣等感を感じたまでに過ぎない。つまり、老いぼれた結果、若き感性に嫉妬し、自らの舵を誤った姿こそ、今の日本の政治家の…というか、社会そのものの“精神の病”の原因だ。
個性を認めたくないからこそ、人間…それも子どもの時からの教育で、単なる“機械部品”となる様、仕込まれているからこそ、無限の才能を活かす場面がなくなってるのであって、落ちこぼれや異端者がいたとしても、それは社会の中ではむしろ健全な姿であって、“すべて平等”という発想こそ、実はおかしいのである。格差社会といえど、富裕層が貧困層に対して、対等な立場で取引(てか、対話を)しているなら、それは“差別”ではない。逆に、その身分に対し上から目線で見たり、排除しようと考える様な状況こそ、差別が生まれる原因である。つまり、人間不信が差別を助長させているのである。お互いが存在し合って、尚かつ信頼関係を築いてこそ、初めて組織という機能が動くのであって、それを仏法用語で“異体同心”と称するのである。逆に、“同じ規格でないと…”とか、“無駄な事業は廃止だ!!”とか、自分自身とは関係無いと思ってる様な存在を邪険に扱っている様なモンは、“同体異心”と言って、本当の意味での“協調性”が失われた状態である。
結論から言えば、“子どもの為…”という大義名分で規制を掛けても、結果として“子どものため”にはならない。むしろ、“精神的な痛み”を教えてこそ、初めて意味があるのであって、それを学ぶ機会を、子どもから奪ってはいけない。そして、自分の“異常な性癖”を自らの意志でコントロールできる様に訓練させてこそ、初めて規制は意味を成す。子どもだからとバカにしてはいけない、なぜなら、そこにいるのは、“かつての自分”であって、それに対してやっかみを言った老人と同じポジションに、“今の自分”がいるのだから…。