迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

神戸の17回忌…

マーグ(以下グ):ういーす、マーグだぜ。
シン(以下シ):こんばんは、シンです。
チルト(以下築):こんばんは、紅火のチルトです。
グ:ま、今夜は、あの震災から16年が経過した訳で、“生前さん”が実際に被災したシンと、報道人の立場で被災地に入った経験のあるチルトに、今夜は任せようと思ってね。
シ:俺は当時、自宅にいて被災した訳ですが、あれは尋常じゃなかったですね。何せ、ライフラインは壊滅状態だった訳ですし、情報も錯綜していて、どうするべきなのか、さっぱりわからない状態でしたね。
築:私もだよ。何せ、現場からの情報がなかなか入らない状態で、しかも、尼崎より西で、何が起きてるのか、音信不通状態でわからなかったからね。

シ:とにかく、着の身着のままで避難所に向かったのですが、その道も、瓦礫と亀裂でまともに進める状態ではなかったですね。
築:阪神高速も、(去年のレポート参照)深江付近からなぎ倒されて、アレかきっかけで、日本の建造物に対する“安全神話”が崩壊したとも言える。
シ:現場付近は、酒蔵も多く、地下水脈がありますからね。元々、地盤が弱かった事も、被害を大きくさせたとも言われています。
築:確かに、西宮から灘区に続くあの一帯は、元々沖積層で地盤が弱く、実際に液状化現象を起こしていたから、基礎工事の段階で、キチンと岩盤層にアンカーを打っていなかった建造物は、耐える事ができなかった。そして、多くの家屋が旧来の耐震基準で作られたモノだったから、1981年以降の建物は軽微な損傷程度で済んだのだが、多くの建物がそれ以前からのモノだった為、震度7の揺れに耐えきれず、一瞬にして瓦礫と化した。
シ:そうですね。今の基準は、この時の教訓から改定され、また、地震の揺れに耐えるのではなく、如何にして軽減するかがポイントになってますね。
グ:いずれにしても、ライフラインが脆弱過ぎて、復旧までに時間が掛かった事も、あの震災ではイヤという程思い知らされたね。
築:その通り、まして、自衛隊の派遣を躊躇した事や、地域毎に消防車のホース連結アダプタに互換性がなかった事等によって、本来なら救えたハズの命すら救えなかった事が、当時の村山政権に大打撃を与えた…今の菅政権でも同じ様なことが起きれば、まさに命取りになりかねない。
グ:言えてるなw 当時の政府も初動体制がマズく、また、情報そのものが寸断された状態で把握しきれなかったからな。去年の宮崎での口蹄疫も、情報をつかんだ時点で対処していれば、甚大な被害を受ける事はなかったしな。
シ:被災した当時は、対応な悪さに対して本当に国を、そして政府機関を恨みましたよ。どうして、もっと早くに動いてくれなかったのかって…
築:報道に携わる者として、現場へ行くのはいいが、報道のあり方が問われた事例だったね。とにかく、悲惨な現場を少しでも多く伝えようとするが、地元の人間じゃないから…いわゆる“土地勘”がない上に、道路状況も悪い。そんな中、物見遊山で東京から取材に入った事は、今にして思えば一番“やってはいけない行為”だったと猛省するばかりだ。あの時点で、我々としては、この惨状を多くの視聴者にわかって欲しかった。しかし、結局我々は地元の被災者の避難活動を邪魔しただけでなく、救援に来たボランティアをも邪険に扱いすぎた。そして、多くの混乱を招く原因を作ってしまった。
シ:ええ…地元メディアでも、被災者の心情…中には実際に被災した記者もいましたから、痛いぐらいにわかっていたから、敢えてマイクを向けなかったのに、そういうのを無視して取材する、東京からの取材陣には、正直、同じマスメディアの者として、がっかりしましたね。あれでは、正しい情報など、伝わるハズがないですよ。
築:当然だが、そんな横柄な態度で取材する姿を目の当たりにした被災者は、マスメディアを信用しなくなった…自業自得とはいえ、テレビが没落したのは、我々報道の者が、相手の心情を逆撫でにした事に他ならないと思っている。それは、私がこのような姿になった今でも、変わらぬ気持ちだ。

グ:ま、今更なんだが…あの時に被災し、命を落とされた方々にはご冥福お祈りします…
シ:同じ被災者として、この震災の記憶は、忘れてはならないと強く肝に銘じてくれる事を、現在神戸市内および被災地域に居住されている方に、折に願います。
築:当時、被災しなかったからと言って部外者として無視するのではなく、多くの震災経験者から当時の事を聞き出し、語り継いでいきましょう。

三人:そして、多くの人々に、幸せ運べる様に…