迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

あれから1年…

今日は“天松楼”はお休みして、東日本大震災から1年経過した…という訳でw。

東北地方でも、甚大な被害があったのは、福島はともかく他に関していえば、沿岸部に集中している。そして、遅々として復興が進まないのは何故か?その理由は、水産業という“職業”そのものに問題がある。つまり、いくら津波被害から守る為と言って家を高台に移したとしても、仕事場が海辺に集約されている以上、利便性を考えれば、警告を無視してでも海岸沿いの低地帯に住居を構えようと考えるのは、無理もない話。また、街を守る為に作った防潮堤を作りたくても、土建屋が足下を見やがって…もとい、建設費用を工面できずに放置せざる得なかったトコだってある。そんな立地的な事情で地場産業自治体の税収が脆弱なトコにとって、国の方針による交付金特別会計(原発や再処理施設、高レベル放射性廃棄物処分場などの設置に対する、いわゆる“迷惑料”)は、言ってみれば産業復興の“起爆剤”であり、それを有する事による雇用創出を意味していた。しかし、福島第一原発事故以降、そういう部分に対する“旨味”よりも、訳もわからずに放射能を恐れて廃炉や建設反対等を言い続けるバカのせいで、そして、政府自身が“愚か者の集団”であるがために、地元でも、そして日本全体も“何もできない”ままになっちまっている訳である。

何度も言うが、東北地方や日本海側の他県は、太平洋岸の他地方に比べて、産業そのものが乏しい地域である。もちろん、精密な機械を作る上では、まさに職人と言わざる得ない様な技術を持っている企業も多数点在してるが、困った事に、その“窓口”そのものが東京に集約され過ぎた為、日本人ですら見過ごされているフシがある。そして、雇用そのものが少ないゆえに、多くの若者がメディアに踊らされて東京へ向かうモノだから、技術の後継ができずに廃れる…というジレンマが発生しているのである。
今の被災地は、まさにそんな状態であり、本来なら、土建屋…もとい、建築業者の専門分野である職以外の雇用があってもいいハズなのに、そこの部分を他の地方から来た者が“企業からの派遣”で荒らしているから、結局雇用そのものが限られるのである。忘れてはいけない。そこに住む人を“奴隷”として雇うのなら、それこそ“余所者”にくれてやれ…である。
神戸の“復興”はそもそも、大阪や京都といった“大都市”が近隣にあって、また、兵庫県そのものは、日本海側と瀬戸内側で文化や産業が違う。故に、自力でやろうと思えば、どんな風にでもなるし、まして“神戸”という土地ブランドが功を奏し、震災後の企業誘致を積極化させる事にも成功した。(ま、その後に関しては、見ての通りだがw)だが、東北…しかも福島県の場合は、良くも悪くも原発事故のせいで、また、宮城県石巻気仙沼、女川に関していえば、尽く報じられる事が多いからどうにかなるが、岩手県青森県の場合、実際に津波で壊滅的な地域があっても、それが報じられること自体、殆ど皆無だ。(それだけ、被災してても軽微で、復興してるという事だろうが…)
そもそも、東北地方にも数々の鉱山・炭坑が点在していた。しかし、高度成長期においてのエネルギー政策の転換や、安い外国産鉱石の輸入に頼る事に、日本の大手企業が舵を切った事で、次々と廃坑し、それに伴う産業の荒廃が進んだ。(それが巡り回って、公営ギャンブルの廃止が相次ぐんだが…)それ故に、福島県宮城県原発を受け入れ、青森県放射能廃棄施設を受け入れたという経緯を考えれば、本当に怨むべき“相手”が誰なのか、想像がつくハズである。そこんトコは、新潟県民の殆どが、田中角栄一族を“英雄”として讃える理屈とまったく一緒。むしろ、オイラからすれば、角栄こそ先人達に泥を塗った“張本人”と考えている。
つまり、今はどんな風な決断を下しても、実際にそれを判断するのは、自分の子孫であり、そこに対してキチンと言い訳を残せるなら、あるいは怨まれる事を覚悟してやっているなら、それを受け入れた上での行動を起こすのがスジである。逆に、後世に怨まれたくないなら、あるいは、言い訳をしたくないなら、最初から関わらないに越した事はない…と言うより、怨まれて当然であるのに、そこから逃げるのであれば、誰とも関係を持たない様、孤立した僻地でひっそりと自給自足生活をすべきである。(ま、実際問題、ドコぞのダレとはいわんが、原発全廃運動の傍ら、自称“自給自足”という生活をやっている“卑怯者”がいる訳だがw)世間とまったく関係ないのなら、何も被害を訴えたり、利便性に関して文句を言う筋合いなどないのであり、大型太陽光発電で一山当てようと目論むドコぞの企業家や、環境保護の意味合いを履違えているバカに付き合う必要などない。
日々の生活を守りたいだけで排除するのであれば、その報いを受けるのは当然の話であり、その責任は言い出しっぺ自身がすべて背負うべき事である。しかし、実際問題は、それに賛同した者も“連帯責任”を負うのが常であり、そこで様々なトラブルが起きる。それを解決させる方法はただひとつ…否、二つの選択肢がある。ひとつは、自分が全てを背負い犠牲になる事。もうひとつは、他の“生け贄”を捧げる事だ。どっちも不幸な結末である事には変わりない。が、真の意味での“英雄”とは、自らが“生け贄”になる事で全てを解決させようとする“利他”の精神が行き過ぎた姿であり、逆に“生き残りたい”という本能に基づいて他人を傷付ける事を厭わない者が“英雄”として担がれるのは、自らの手を他人の血で汚したくないから…つまり、そういう変態を“生け贄”にして逃げるのである。
迷惑を掛けたくないと無理してる者を助けたいなら、その者の鳩尾に一発入れる事を厭わないこと。そして怨まれても、決して頭を自ら下げない事である。逆に、他人に責任を擦り付けたなら、自らの意志で前に出ない事と、相手に罵られ、仲間はずれになっても土下座し続ける事である。もしも、頭を下げるなら、あるいはその罪を許すのなら、その責任は連帯で…という意識を持つ事と、表向きはともかく、独りになった時に素直に“ありがとう”と感謝する事である。ともかく、本当に辛いのは、怒りの矛先をどこに向けるのかではなく、それをすべて自分自身に受け入れて、その痛みに耐えながら笑う事である。それができた時…敵も味方もなく、誰からも“愛される”存在へと神格化するのである。

無冠の勇者に祝福を、有名な愚者に鉄槌を、生きとし生けるもの全てに久遠の繁栄を…南無。