迷馬の隠れ家 はてな本館

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過剰な恐怖感は、必要な技術をも廃させる…〜原発問題の光と影〜



まずは、この記事を読んでもらいたい。一見すると、大した問題の様に思えないかもしれないが、重要なのは、研究機関で放射能に関する研究者がいなくなると、原発を安全に廃炉する事ができなくなる…というジレンマに陥るということ。つまり、過剰に原発…というよりも、放射能を嫌っていると、肝心な部分で“人材不足”に陥る事になる。ぶっちゃけた話、放射能を正しく理解し、取り扱える技術者、および研究者がいなくなると、原発を止めた後の廃炉作業ができなくなるだけでなく、福島の被災地は、永遠に除染されぬまま廃れる事を意味するのだ。

もちろん、この結果に関しては一過性なモノだとは思いたいのだが、将来的に原発放射能を取り扱う上で必要な知識と研究機関が無くなると、廃炉どころか被災地の除染のみならず、日本の放射能汚染を拡散させてしまう危険性を孕む事になる。つまり、ここんトコの過剰な原発反対運動こそ、却って自分らが望む原発廃炉を妨げる原因である…という訳だ。
念のために言っておくが、放射能を取り扱う科学者にも、原発の開発を反対した人達がいる。しかし、彼等が他の技術者や研究機関から嫌われたのは、“危険だから”という単純な理由だけで反対するばかりで、具体的な事を何も言わなかった。そして、万が一の為の研究にすら参加しなかった臆病者である。今でこそ、反原発脱原発の“シンボル”の様に祀り挙げられているが、彼等にしてみれば、そういう感じで取り上げられる事自体、不本意な話であって、本来の研究から逸脱した行為に他ならない。事実、原発の開発に携わった研究者の中には、廃炉時の放射性廃棄物の処理問題もセットにして研究すべきだと提唱した人もいたが、残念な事に、その研究をやる前に計画から席を外された…何を意味してるかは、想像して欲しい。
原発が開発された頃には、そういう事を考えず、むしろ“究極の永久機関”としてのエネルギーとしてウランやプルトニウム核分裂反応を、それこそ“平和利用”という観点で、開発は進められた。そして、忌まわしき核兵器はその“副産物”であって、原子力を正しく使いこなせる為の“実験”として、開発された経緯がある…そう、広島と長崎の“犠牲”なくして、核戦争の危機と、核の“有効利用”などあり得なかった話であり、それ故に、理論を提唱したアインシュタイン博士は、米の“核使用”を批判した。だが、その想いは虚しく、世界中のアチコチで、核兵器が開発・装備されていったのは、皮肉な話と言えよう。
しかし、その“報い”は、スリーマイル島チェルノブイリ、そして福島に襲いかかったのはいうまでもなく、だけど、他の国々では今でもコソコソと核実験を行っている…だが、コレを未然に防ぐ術を“廃棄”したのは、皮肉な話だが、政府や科学者を批判している市民団体であり、訳わからずに参加している学生達である。そう、自分達が放射線被曝に対して過剰に恐れ、忌み嫌った事によって、実は自分を過剰な放射線被曝から守る為の、そして、安全に核を廃棄して影響を最小限にする為の知識や技術を学ぶ機会を、自らが捨ててしまったのである。
ここまで言えばわかるだろう。確かに、原発依存な状況を打破したい気持ちはわかるが、その為には、それに似合うだけの知識と、代替エネルギーをどう開発するかといった事、更には廃炉や事故の後始末についての技術研究が必要であって、その為の学問さえ批判する様では、却って同じ過ちを繰り返す事になる。何事にも手順は必要であり、原発廃炉にするにも、より安全性の高い原子炉を開発するにも、その為の技術力と研究結果が必要であり、そして、そこに携わる若き人材がいなければ、今は良くても将来的に、老朽化が原因の事故で、福島の悲劇が再び起きる事になる。
ついで話をしておくと、放射線被曝に関するデータは、ぶっちゃけ、広島と長崎に原爆が落ちなかったら出てこないモノであり、チェルノブイリ原発事故が起きなければ、放射性物質が体内にどの様に蓄積されるかのメカニズムも解明できなかった…そう、放射線の過剰被曝の“モルモット”なしでは、過剰被曝後の処置や治療法など開発される事など無い。どんな医療技術でも、罹患者の“犠牲”なしでは進歩しないのと同じ。そうなるのが怖い人程、実は罹患者を見下している愚か者である。健全な自分が今あるのは、そういった尊い犠牲の下で培われた技術や研究結果があってこそであり、それの有難味を忘れて批判すれば、やがて自分自身が苦しむ事になる。