迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

学力テストの本意とは…

一部報道で、昨日、小6と中3を対象とした学力テストが行われたという情報が流れた。今年は理科を加えた3教科だったが、来年以降は国語と算数(数学)のみに戻し、しかも日本の全小中学校でやるとの事…色々意見があるかと思うが、特に“なんで国語と算数のみなのか?”という疑問が多いが、そもそもコレ自体は、何を見る為のモノなのかを考えて論じているのだろうか?

基本的なことを言えば、国語と数学(特に計算能力)について結果を求めるのは、義務教育期間中に、どれだけ理解できる様になったかを試すのが目的であって、要は“読み・書き・計算”の基本がしっかり身に付いているかを見るだけの話。逆を言えば、他の教科がテスト内容に入らないのは、言葉の意味や計算方法がわからないままでは答えられない“応用学”の範囲に入るからという概念があるからこそ。つまり、いくら地理や歴史に強くても、言語学…特に日本なら“日本語”が正しく話せない、または文字を書く事ができなければ、相手に自分の答えを伝える事ができない訳であり、理科でも、物理や化学では、実験結果のビジュアルがあっても、それを他人が再現実験をしようと思っても、ある程度の数式化ができなければ、それは不可能だって事。だからこそ、教育現場に於いて、国語と数学をテストしてる訳である。
ちなみにオイラは、高校時代までは、国語は平均並み、数学はある意味バカだったが、理科と社会はどういう訳か、常にトップクラスだった。但し、理科だけ詳しく分析すると、物理がやはりヤバくて、化学や生物学、天体学でリカバーしてたトコがあった。だから、本質的には文系の頭脳だが、計算に頼らない分野の理科も強かった事を意味する。故に、物理学に関してはチンプンカンプンでも、その他の分野なら誰にも負けない自信があった。(え、英語?そんなモノ…通知簿に煙突が並びまくった上に補習も受けましたよ、マジでTT)
勘違いしてはいけないが、基礎学力を試すのであれば、真面目な話、国語と数学の2教科だけで良い訳だが、それの成績ばっかりに拘ると、却って他の教科を学べなくなる。つまり“余分な知識”として他の教科を邪険に扱うと、別の意味でバカになる。そう、学習能力とは、そのバランス感覚を身につける能力であって、必要以上な詰め込みは、優秀な頭脳を狂わせる一因になる。つまり、どんなに国語が優秀でも、歴史…特に考古学での古文書読解力がお粗末だと意味が無いし、数学がトップクラスでも、それを物理の加速度計算や化学の薬剤調合の計算等に応用できなければ無駄になる。身近な話をすれば、放射線被曝量も、それを求める方程式があるのだが、ここで数学が本当に強い人なら、ここま大騒ぎする様なモンじゃない事を理解できるのだが、殆どの人ができないモンだから、わからないまま騒ぐのである。コレと同じ。つまり、結果データや分析証拠を提示しろだとか、本当の事を教えて欲しいとかいう前に、説明する側と同じだけ、あるいはそれ以上の“理解力”を有していなければ、専門家がアレコレ言ったトコで、自分が状況を把握する事なんぞ無理だって事w
こういう事は、裁判における審議や判決理由を聞く時にも、あるいは、病院で診断を受けた際にも言える事であり、その数値や言葉を正しく理解できないままでは、却って自分が不利になるというモノ。また、良い結果だったとしても、受け止める側がバカだと勘違いを起こして事態が余計に拗れるだけ。それを防ぐ為にも、基礎学力を判断する基準として、国語と数学の“就学率”を求めるのであって、その他の部分は、それを如何に応用させるかの“基本”でしかない。逆を言えば、社会科を学習する上にも…特に歴史を正しく把握する上で古文書…特に漢文や万葉がなを読み解く為には、それに似合うだけの識字・読解力が必要だから、必然的に国語の古文を重点的にやらないと読めないし、家庭科の、特に料理実習の際にカロリーや塩分濃度などの調整も、基本的な計算方法が重要であって、その為に九九や暗算をやっとかないと、味はともかく不健康な料理が次々とできてしまうw (ギャンブルでもそうだが、ある程度の暗算と確率の計算式ができていないと、たとえ賭けに勝っても、配当などで損をするw)
だから、テストの結果だけで判断するのではなく、それを活かせる様に教えてこそ、本当の意味での“教育”なのであって、知識を詰め込むだけの教育方針なんぞ、なんの意味も無い。それは単に、博学者による知識の“押し売り”であって、子供…というか知恵を求むる者たちにとって、学習機会を妨げる邪魔者でしかない。専門知識が無くても、様々な事が理解できる様に頭を軟らかくするには、数式化したデータに囚われるのではなく、知を求める方向へと導く為の手段を考える事こそ重要。それに、それぞれに得手不得手があってこそ、社会生活の中で支え合う事ができるのです。兎角、規格外を排除したがる人が多い様ですが、自分でどうにもならない状況下において、絶望と向き合えるかどうかを考えた時、逃げるのか、立ち向かって戦うのかで答えが変わります。どちらも選べずに、突っ立ってるだけでは、誰も救えませんから…