迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

真の“正義”とは何か?

原発を掲げている人は、何か勘違いをしてるのではなかろうか?そして、世間の“矛盾”に対して、いちいち目くじらを立ててる人は、何か忘れていないだろうか?そう…自分自身が“騙された”と訴えるのは勝手だが、それを“選んだ”のは自分自身であって、それを世間のせいにし過ぎてないか。政権交代を約束した政党に投票したのも、大気汚染が深刻化して、尚かつオイルショックによる原油暴騰に嫌気がさして原発を推進したのも、全部、自分自身の“責任”であって、それ故の払わねばいけない“犠牲”を払わずに逃げる事程、一番無責任な話じゃないですかw

学校給食の材料費を知っている人なら、なんで“規格外”の食材ばかりが使われるのか、すぐにわかる話。もっと言えば、健康志向で食育を考えている保護者であれば、その給食費が“高騰”している“原因”もわかるハズ…なのに、そこんトコを問わないのは何故だろう。もっと言えば、バイキングレストランの食材なんざぁ、考えようによっては、学校給食よりもヒドい食材を使っている可能性がある。そういうトコを有り難がって食ってるのは、いうまでもなく利用客自身である。忘れちゃ困るが、個人経営の居酒屋で大手以上の価格サービスをやるには、時として農家からの直接取引をする場合があるが、彼等が購入するのは、実は、市場に出す事のないB級品…すなわち、規格外として弾かれた農作物ばっかであって、通常、スーパーとかで扱ってる様な、綺麗なモノではない。なんせ、店に出す時には加工する訳だから、別段、形が歪でも、そして多少賞味期限が切れていても、そこんトコは関係無い。逆に、本当に鮮度の良い食材を扱っている料理店は、食材の鮮度を自分で目利きし、そして調理する分、その“手数料”を価格に上乗せして提供する。だから、超一級の料理店の価格は、同じ内容の料理でも、(まして味が同等でも)大衆食堂の比ではない。
どんな経済活動も、そこには“善”も“悪”もない。むしろ“勝てば官軍”という法則のみが存在し、そこになりたいが為に、相手を蹴落とそうとする、汚い話が存在する。社会のあり方でも、そして、宗教の布教でも同じで、時として相手を“敵”と見做して攻撃する…しかも、完全に相手を潰すまで。しかしそれは、反対側から見れば同じ事で、相手も自分を“敵”と見做し、攻撃する事になる。そこに“和解”とか“妥協”という言葉は存在しない。そうなると、結局共倒れになるとも知らずに、とにかく排除しよう、叩き潰そうと、自分と“異なる”事を嫌って、攻撃してしまうのである。これでは、結果として自分達が正しくても、誰からも認められないどころか、本当に救わねばならない者を“見殺しにする”のと同じ。
本当の“正義”とは、一体何か?答えは単純ではない…むしろ、様々な事情によって変わってくる。それがわからない人程、単純な“正義論”を振りかざす。敢えて言っておくが、それは“究極のジコチュー”であって、それを自らが振りかざした時点で、他者から“悪”として見下される原因となる。逆に、その“正義”を振るかざすのではなく、敢えて自ら“悪”を背負う事を願い出る者の態度こそ、実は多くの人々を教化し、正しい道へ導く、指導者としての心構えである。つまり“願兼於業”とは、自分自身に対し、たとえ無実であっても世間に変わって“諸悪の根元”として潰される側に立てる者としての“勇気”であり、実践する姿である。それができない者程、相手を罵倒し見下すのである。
もっと言えば、今のテレビがつまらないのも、政治が“国民不在”で推移するのも、全ては自分達で“選べる”ハズのモノを選ぼうとせずに、他人に言われるままにしてきたツケである。実際、他人がやってきた事を、ただなぞるだけだとラクだけど、故に退屈して当然。だってそれは、自分が自分でやってきた事ではなく、他人がやってた事を引き継いだだけで、そして、どこまでいっても“自分”という存在が、そこにはない“世界”だからだ。逆を言えば、完全な“個性”を磨くには、時として他人とは違う、自分らしさを追求していかなければならない。だけどそれって、結構苦労も絶えない。なんせ、完全な“オリジナル”を作るにしても、その“基盤”となる教養やセンスがなければ、結果として他人の“コピー”のみの状態になる。それを良しとするか、否定するかは、自分自身の勝手だ。
それすら“邪魔臭い”となったら、何をもって“自分”と言えるのだろうか?そこに、本当の教養の深さ、そして本物の賢者としての知恵が、他人との差となって出てくる。それが“悪”だとして批判するなら、人間という“生物”は必要じゃない。その代わりになるロボットやコンピュータがある以上、自分の我侭を、苦労せずに叶えてくれるでしょう。でも、それって、本当に“幸せ”なんでしょうか?もしそれが理想だとするのなら、それこそ本物の“悪”です。だって、他人の幸せを破壊した上に、更に自分以外の存在を否定してる訳ですから、叱ってくれる人も、そして一緒になって笑ってくれる人もいませんから、抱えきれない孤独と向き合う事になりますよ。それができる人は、そもそも殺人や窃盗等の罪なんて犯しません。その前に自らの命、絶ってますから…そう、誰かにかまって欲しいから、そして満たされない“心の渇き”をどうにかしたいから、ついつい同じ過ちを繰り返すのです。なぜなら、同じ様な事例があっても、やってる人間までも“同じ”ではありませんから。諺にある“他人(ヒト)の振り見て我が振り直せ”も、要は、そういった過去から連綿と続く歴史を“我が事”の様に取り扱う事であり、類似の事案に対して、自分なりの“答え”を実践してこそ意味があるのです。チェルノブイリやスリーマイルの事故後、日本の政府はそして各電力会社は尽く“他人の出来事”として無視した経緯を考えれば、福島の事故は“起きて当然”だった訳です。しかし、事が起きる度に騒ぐ人は、もっとバカです。なんで、電力会社から電気を“買って”いるんですか?消費者として不服であるなら、“不買”もひとつの抗議です。それもせずに廃炉にしろだとか、原発を使うなとは、言語道断。自分達の抗議そのものが矛盾してるのに、何をやってるんでしょうか?
そう、本物の“正義”とは、ただ感情に任せて怒鳴るのではなく、それに伴った行動を実践してこそ、そしてその結果を世間に示してこそ意味を成します。つまり、最新科学を批判するなら、自分の生活からそういった“便利道具”を一切排し、それでどこまで普通に生活できるかを試せば良い…ポーズだけの抗議よりも、よっぽど説得力があります。もっと言えば、放射能を悪者の様に言ってるバカには、広島や長崎で原爆投下後に救援に入り被曝した人が、今日までに子孫を残せた“理由”を無視してる…ぶっちゃけ論だが、オイラにしたら、実証がある以上、そういった“とんでも論”なんぞ、いつでも論破できる自信がある。そして、今まで通りの生活を望むよりも、もっと変化があっていいと思う。自分が“自分”である以上、その信念がブレない限り、どんな事が起きても動じないし、そして社会に対して、どんだけ迷惑を掛けても実害だけは残さない…それが、オイラが唱える“真の正義”です。