迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

今一度、“復興”の意義を考える。

Twittreの纏めサイトで、アクアマリンふくしま学芸員が、職を辞してまで真実を訴えた事が話題になっている。どうも、日本人は“復興”の本意を履違えている部分があり、また、詐欺紛いな学者…しかも首都圏在住で著名だからという理由“だけ”で何も検証せず、信用するフシがある。コレでは、本当の意味で東北…それも福島県浜通りの復興を“支援してる”とは言えない…むしろ、それを“阻害してるのでは?”と、疑いたくなる。事実、神戸の震災復興を見てきたオイラからして、メジャーな三宮や北野坂、高級住宅街の御影など東部エリアは、いろんな意味で元通り(てか、昔以上に活気ある街)になったが、一番ダメージが大きかった長田やハーバーランド周辺では、むしろ寂れっぷりが酷い。これは、言い方が悪いが“復興”という名の御旗を掲げて言いよった、街づくりのアドバイザーと称する“詐欺師”に騙された姿だとしか言い様がないからだ。

では、どうしてそうなるか?結論を先に言えば、そこには“住民無視の計画”があり、いわゆる“部外者”…この場合は被災地にいる建設業者や地元の地理・民俗学者以外の者を指しておく…つまり、現地を知らない者が、自分の思い描いた“街”に作り替えられる機会だと勘違いしてる事が大きい。もっと言えば、現地を知らない者が、いかにも“知ったかぶり”して、ああだこうだと注文付けて、その上で“コンサルタント料”と称する金銭授受を強要してるからである。
言っておくが、被災地の住民は、なけなしの財産を差し出してまでも、復興を願ってるのにも関わらず、建物や道路の整備ができた途端、その後のケア…つまり、商店街や観光施設の集客に繋がる事案に関して“追加料金”を要求する時点で、それは弱者をバカにしてるのと一緒である。同じ事例で言えば、身障者に関する表現に関して、実際にハンデある者が何も気にしていないのに“差別だ”と言ってる、自称“人権擁護運動家”という連中と一緒で、当事者でないとわからない事を、さも“わかってる”フリしてバカにしてるのである。これと同じ。
放射能云々に関してもそうだが、放射線そのものは、放射性物質でなくても微弱ながら発するモノであり、それは光であったり、熱であったりするだけであり、また、放射性物質といっても、核分裂核融合に必要なエネルギーを与えない限りは、なんの悪さもしない。つまり、オイラが皮肉を込めて“太陽光も放射線の一種やでw”と言ったのも、そこんトコの部分がわかって言ってるのであって、何でもかんでも“放射能が悪い”と言ってる、自称科学者や医療関係者の短絡的な“常識”を疑うに充分な答えだと確信して言ってるまでに過ぎない。もっと言えば、放射性物質…というか、放射能そのものがないと、物質はいつまで経っても崩壊しないし、簡単に研磨や加工ができないのだが…
閑話休題、つまりは、専門家過ぎるモノだから、ついつい相手をバカにして、相手の無知さを利用して騙す…という事になる訳である。でも、忘れてはいけないのだが、専門家はあくまで専門分野では秀逸な頭脳を持ってても、一般教養とかを学ぶ頭脳を犠牲にした、ある意味可哀想な人達である。言い換えれば、本物の“天才”とは、専門分野をひけらかすのではなく、自分の知らない、あるいは本来なら学ぶ必要のない分野の知識を、積極的に吸収しようと精進する“知の餓鬼”である。逆を言えば、今の知能だけで満足する者は、そういった“純粋な好奇心”をバカにする事しかできないということ。失敗からいろんな事は学べるが、成功事例を並べるだけでは、結果として大失敗を招く事を意味する。経験があってこそ、知識は深まるのであって、表面上のデータなんぞ、なんの意味もない。もっと言えば、歴史でもそうだが、当時を知る者が正確に、しかも嘘偽り無く記録してくれてるならともかく、そうじゃない者がその記録を改竄すれば、その時点で狂いが生じる。悲しい話だが、当事者以外は、その“真実”に触れる事はできない。だから、どんなに経験則で説明しても、その時に“当事者”にならない限り、その教訓も、それを刻んだ石碑も無視される事になる。現に、東北の太平洋岸の集落が津波で壊滅状態になったのも、その“歴史的警告”を無視して開発を進めた結果であり、また、被災者が危険を承知で“故郷”へ帰りたいと言ってるのも、そこでなければ不便だったから…という“歴史”がそこにあるからである。このステレオ的な視点でもう一度、災害からの“復興”を考えた時、本当に必要な支援とは一体何か…そこにあるのは、住民の生活感と実態を把握する事が、如何に難しいかを知る事になるだろう。
本気で震災を克服しようと思うと、時として過去を“捨てる”という勇気も必要である。しかし、本当の意味での“復興”とは、ただ“外野”が騒ぐ様な事ではいけない。むしろ地元と、そこに訪れた客人が手を取り合ってやっていく事に意味がある。その為には、少しでも専門分野以外の常識…例えば、諸般の事情で市場には出回らないが、その土地でしか育たない農作物の“美味しい食べ方”を、地元の人に聞いてみるなり、近隣の河川に入って、そこで生息する生物の実態調査をやってみるなど、地道な活動から学ぶべきである。そうして得られた結果をデータ化し、活用してこそ意味がある。実態データが伴わない復興計画なんてのは、単なる“絵に描いた餅”でしかない。