迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

My favorite Contents vol.13(宇宙への狂想曲)

ひっさびさのこのコーナーw 今回取り上げるのは、今から20年以上前の話。バブル花盛りで、番組制作に関しても、今以上に余分なトコで予算を使い果たす事なんてザラだった頃…丁度ソ連(現在のロシア連邦)がペレストロイカ(開放政策)で外資をどうにかして集めようと躍起になっていた時のお話。現在でもロシアの宇宙開発機関では、民間人に対し、およそ一週間程度の“宇宙旅行”を募集してる訳だが、その走りが、今回の話のネタであるw え、なんでこの話をするかって?実は、この秋、MBSはラジオの改編(ナイターオフ)で、4時間モノのワイド番組を作った訳だが、コレの水曜担当が、今回の話の“主役”である秋山豊寛(とよひろ)氏…そう、TBSが系列局にまで公募をし、そして選ばれた日本人初の“宇宙飛行士”なのです。ま、本人の近況については番組内でも喋ってくれると思うんでそこんトコは省略するが、ここではバブル期のTBSが“大暴走”した壮大な企画と、現在の文科省…というよりJAXAが思わず歯軋りした、宇宙飛行にまつわるetc…な話です。(ちなみに、何で関西にいるのかというと…去年の東日本大震災福島原発事故によって、いわゆる“原発難民”となってしまい、京都の方に移り住んだんだとか。そんな本人曰く、『目指すは平成の“竹取翁”』だそうなw)

さっきも出てきたが、ロシア連邦ソ連だった頃の末期…ゴルバチョフ政権下において、今までの共産主義のあり方では、国民の生産性や生活水準の向上は限界がある(というか、堕落した役人が横暴な態度で国民を苦しめていた)という理由で、それまでの方針を180度転換して、対外政策において大幅な規制緩和を行った…いわゆる“ペレストロイカ”というヤツである。コレによって、今までの国営機関は、税金による堕落した運営から、自主的に国の内外にセールスをしないといけなくなった訳である。当然ながら軍事機密でもある宇宙開発の分野も例外でなく、今までの“血税使いたい放題”から一変して、開発費獲得の為に、どうにかして外貨を稼がなければならなくなった訳である。そこで思いついたのが、当時のソ連保有していた宇宙ステーション“ミール”に、一般民間人を一週間から10日程度滞在させるという“宇宙飛行体験”を、全世界の宇宙開発機関に先駆けて実施することを公表したのである。しかし、価格が1回につき訓練費や適性検査料等を含めて一人10億円以上というのがちょっとネックでもあった…が、当時の日本企業はそんなのは余裕な状況だった訳で、その企画に乗ったのが、当時のTBSだった訳である。しかし、日本の政府…特に当時の文部省としては、この“企画”に関して、実は相当不満があったのはいうまでもなく、しかも当時、アメリカのNASAから毛利衛氏をスペースシャトルに乗せる計画が進んでいた最中であった…そう、JAXA(当時はNASDA)としては、TBSの“コレ”は事実上、専門分野の“横取り”であり、到底認められるモノではなかった。しかも当時(いや…今でも)、宇宙開発は軍事目的もあった為、アメリカとソ連の“宇宙開発競争”が激昂してた時でもある。言ってみれば、TBSが当時やった行為は、日米ソの国交問題に発展しかねない、非常に危険な行為だった訳である。しかし、当時のソ連としては、宇宙の平和的有効活用の一環として、“宇宙旅行”を一般に開放する事で、他の国々と協力し合って宇宙空間での実験や観光ビジネスを開発していこうというきっかけ作りをしたかった訳である。そう、この“問題”で戦争まで発展させようとする不逞の輩を排除する為に、トップである当時のゴルバチョフ書記長は、自ら先頭伐って交渉に当たったのである。その態度を見て、流石のNASAも日本に対して“先陣争い”に負けた事を詫びたのである。
さて、やっと計画そのものがGOサインが出て、TBSが真っ先に行ったのは、JNN及びJRNに籍がある全ての放送局に、日本人初の“宇宙飛行士”になる為の立候補を募集した訳だが、結局コレはTBS社内の連中ばっかに最終的になった訳である。てのも、多くの放送局がその候補者を送り出したくても、ソ連までの“出張費”を捻出できないだけでなく、万が一の事があっては業務に支障をきたす…等の理由で殆ど断ったからであるw(当時、MBS近藤光史アナがこの企画にのる気満々だったんだが、体重制限で断念したそうなw)で、結局二人の候補…秋山氏と菊池女史が最終候補となり、現地で訓練を受ける事になったんだが、最終的に体調がすぐれなかった菊池女史が落とされ、当時の“最高齢”宇宙飛行士として、そして世界初の“宇宙飛行ジャーナリスト”として、秋山氏がソユーズに乗り込み、宇宙ステーション“ミール”に向かう事となった訳である。その模様は、逐一交信時間に中継する形式でテレビ・ラジオを通じて放送された。そして無事に帰還後、日本中から体験談の講演依頼がTBSに殺到し、また、秋山氏自身もTBSの特番に振り回される状態がしばらく続いたのである。
その後、ほとぼりが冷める頃を見計らったかの様に、秋山氏はTBSを早期退社し、福島県内に移り住んで、原木シイタケの栽培農家として第二の人生を歩んでいたのだが…時の悪戯なのか、それとも天が下した判断なのかはわからないが、件の震災を期に京都へ避難してきたとの事である。でも、なんで報道記者から農家に転職したのかと言えば、やはり、宇宙から見た地球で、定年後の自分にできる事は何かを考えた時、農業に従事する事で、もう一度、緑豊かな地球にしたいと願ったからである。そう、彼は報道記者である事よりも、一人の“地球人”として純粋に考えた結果として、“第二の人生”は農家を志望したのである。だからこそ、誰よりも熱く、そして思いを込めて農の“未来”を語るのです。