迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

本当の意味で、世界の“常識”を変えるには?

いつも平日は、RN2を聞いているんだが、その中でも気に入ってる時間が、“Artist×Artist”って区分。約40分程の枠で、フォーク・ニューミュージック・J-POPの歴史を、一人のアーティストの生き様を通じて解説するんだが、今日は小田和正の特集だった。で、その中で解説者の田家秀樹さんの言葉に、ちょっと違和感を覚えた。オイラ的に言えば、時代というモノは、先駆者が如何にして後続に対して、どんな生き様、理想を見せるかに掛かってるのであって、先達に認められないからこそ、その価値観を否定しながら、尚かつ自信の価値観を、自分よりも拙き者に押し付けるかにある…つまり、今の音楽シーンで小田和正サザンオールスターズ等の70年〜80年代にバカにされてたジャンルの楽曲が認められたのは、それを聞いて育った子ども達が成長し、それ相応の社会的地位を勝ち得て来たからこそであり、アニメにしても、80年初頭までは、子どもが見る娯楽番組の延長線でしか語られる事がなかった分野だったのが、深夜アニメの隆盛に至るのは、これと同じ事が言える訳である。では、どうすれば、世界の“常識”って感覚を変革させる事ができるのか?

先に答えを言えば、さっきも書いた通り、時代は先人が作った世界観・価値観に対して、自分がどの立場で語るかである。アニメや特撮が単なる子どもの娯楽から、大人が観賞する代物へと変化する過程には、その価値観に対する変革が先にあって、そのきっかけはどこにあるかという事になる。今の“ヲタク”の定義も、そもそもは、バラエティー番組において、キモい見た目と、余りにも玄人な専門用語で捲し立てる態度が紹介された事にあるが、現在のヲタクは、正直見た目だけでそれだという事を判別できる者は、むしろ少数派であって、大多数は本人が告白しない限り、わからない。(撮り鉄やカメ子はともかくw)もっと言えば、昔のアニヲタは、その殆どは中高生であって、少ない小遣いと、週末の限られた時間をやりくりして、レコード屋や玩具屋等の前で行われるイベントに行っては、当該声優のサインを求めたりするのは、当たり前の光景でした。そんな彼等が、今風のお洒落をできる訳もなく、故に“お約束”な格好になるのに、それをマスコミが嬉々として報じるから、勘違いする訳です。なんでそんな事が言えるかといえば…オイラもそういう時代にいた世代ですんで、よくわかるんですよw そう、今40代〜50代前半のアニヲタってのは、まさにそういう頃を経験してる訳で、それが大人になってる訳ですから、そこんトコに精通してて当然ですし、ガンダムアンパンマンに関する価値観も、当時のPTAの評価と、それを見て育った世代が大人になってからの評価では、まったくの別モノです。つまり、先人が作った世界観を見て育った世代が、子育てをやってる訳ですから、その世界観が次の世代の子どもにウケるのは当然であって、仮に、今の時代に戦時中ののらくろや、トンデモ化学がまかり通ってた頃の宇宙少年ソラン等のマンガやアニメをそのまま流しても、恐らくウケないでしょう…キャラクターはともかく。
同じ事は、今の世界情勢…特に中国や韓国の対日感情にも見え隠れします。そう、反日教育によって国力を鍛えた事の弊害として、国際社会において、一方的なヘイトスピーチは恥を掻く事になる…かつての戦時下の日本と同じ事を、完全に踏襲してる事に気付かないのは、本当に可哀想な事です。同じ事でいえば、ドイツの“ヒトラーアレルギー”はかなり酷い様で、日本ではギャグで済まされる“加トちゃんペッ”のポーズは、場合によっては現地警察の職質を受けるだけでなく、逮捕される可能性もあるとか…アメリカの法律(州ごとに違う)の中には、未だに禁酒令を強いてる様な法律(公共の場においての飲酒禁止とか、許可ナシでアルコールの所持が禁止されてるとか…)があるとか。こういうのも、結局はそれを制定した者が、後世の情勢変化を省みず、当時の勢いだけでやっているからおかしくなる訳で、緊急時はともかく、平時の見直しや情勢に合わせた運用を決めていないからややこしくなる訳であり、その“見本”を見せるべき大人がエエ加減な事をやったせいで、子ども達が大迷惑を被る訳である。
誤解を解くのは難しくても、ひとつひとつ、子ども達の前で問題を一緒に解いていこうと努力してるなら、どんな困難が起きたとしても、乗り越える事ができるが、それを自分一人で抱えたり、あるいは賛同者を募って責任逃れを考えるのであれば、簡単な事でも、その度胸のなさが仇となって、問題がややこしい方へと向く訳である。法華経の理も、ある意味これと一緒で、複雑に関係性が絡んでいても、根幹的な事で重要なのは、後世の者…つまり、子どもの前で自分達が如何に世間に対する“落し前”を着けるかである。薫兄が凱旋門賞の中継で言ってた“挑み続けなければ、結果は得られない”というのも、まさにコレで、自分が失敗した事を、いかにも“世界の終焉”みたいに騒ぐのであれば、そこで本当に全てが無駄になる。だけど、その失敗や敗北を、次世代に見せておいて、“同じ立場の自分”ならどうクリアしていくか、何度も挑み続ける事にこそ、本当の意味があり、価値が出る。“継続は力なり”とは、まさにコレである。
つまり、社会を変革させる、一番の根幹は、次世代の育成である。それは、自分達が持つ価値観の否定にも繋がりかねない事ではあるが、だけどそこで妥協しては、何も変わらないどころか、却って自分の理念から外れた思想のみが空転する事になりかねない。だからこそ、様々な挑戦を繰り返す事で進化する訳であり、また自分よりも古い世代にバカにされたとしても、傍で見ていた子ども達が下す評価が、世界の常識へと変わるきっかけになる…だからこそ、変革を求めるのであれば、自分の世代で達成されない事を悔やむのではなく、次世代において、正邪を決する為の基軸をキチンと教えてこそ、その変革は意味を成す。共産主義が批判されるのも、結局は次世代が苦労する事が目に見えてる事だからこそであり、資本主義が労働者階級において叩かれるのも、同じ理屈にあるからだ。でも、その“違い”をキチンと学び、どの立場であっても不平不満を言わずに受け入れられるか、それとも喧嘩腰になっても議論し続けるかは、子ども達に委ねる事であって、自分達ではない…それが大人の“ずる賢さ”であらねば、結局何も変わらない。