迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

若者に、何を求めたか?

昨今の若者を表して“さとり世代”と表するらしいんだが、それを“望んだ”のは誰か?今のSNS隆盛時代において、いわゆる“知ったかぶり”をする人が増えたのは何故か?その根幹は、オイラも含めた成人世代…特に65歳以上のシルバー世代、ぶっちゃけ、オイラの“親世代”が“子ども”であるオイラ世代に、何を“期待”したかである。逆をいえば、オイラ世代が子育てをする上で、何をもって“正義”とするかの基準を、子どもに与えてるから、ややこしくなる。教育とは即ち、常識や理念等の伝承であり、それから外れた思想や概念は、いつの時代でも“異端”とされる。そして、正義を論じる時に必然的に反対側にいる意見や思考は、常に“悪”として語られる。しかし、それってどうだろう?

いわゆる“オザキ症候群”が若年層に見られなくなったというが、それは、今どきの若者が、リアルタイムで尾崎豊の楽曲の世界に触れる事がないからであって、別次元での“オザキ症候群”は、どの世代にも存在する。但し、それが解るのは、具体例を“置き換える”という一手間が必要であって、そこに個々のボキャブラリーが問われる訳である。SNSでの“炎上”騒ぎにしても、それはSNSがあるが故の“オザキ症候群”であって、ミニバイクを盗んだり、校舎の窓を割ったりする方向が、インターネット上での情報錯綜を利用した名誉毀損や軽犯罪へ移行しただけに過ぎない。要するに、ここんトコ頻発してた、コンビニの冷凍ケースで寝そべったり、飲食店で全裸になったりするのは、ある意味での“オザキ症候群”である。
つまり、今どきの若者だって、バカな事はしたい訳であり、そこんトコは世代を超えてやっているだけであって、そこを問うべきではない。問題は、なんでそういう“本来のバカ”が情報の上での“バカ”に惑わされるのか?その“答え”は、いつでも同じ…現場の、しかも最前線に立ち合ってない者が、上辺の情報のみで判断して、自らの感覚で試そうとしないからである。もっと言えば、人各々の感覚なのに、そこに同意見を掲げる人を求めるが故に、時に自分にしかない感覚を封じ、あるいは、他者のコメントで一喜一憂する訳であり、また、違いを認められないからこそ、相手の存在までをも批判の対象とする訳である。かつて、軍事下の日本でも、それ故に新興宗教が慈善事業をやっていても、伊勢神宮の神札を受けてない“邪教”として排除されていったのと一緒で、相対する関係を否定すれば、それ故に、そのマイノリティーが発する警告すら受け入れられずに、軌道修正ができなくなる。反原発を唱えるのはいいが、だからと言って、原発そのものの開発を否定すれば、チェルノブイリや福島は、いつまで経っても廃炉できないまま、朽ちる事になる。それは何を意味するか…開発に必要な犠牲を無視して享受できる程、どんなテクノロジーも存在しない。ほんの少しの破天荒に憧れる人程、その犠牲者になる度胸がない。
まして、天皇や皇族方が、無神経に血税で贅沢三昧をやってる訳ではない。それ相応の業務として、日本だけでなく世界中を渡り歩いて、渡航先の王侯貴族や要人に話を付けてくる訳であり、行幸啓されるのも、現場へ入って現状を見聞し、それをもって現場の人間に声を掛ける訳であり、そして、神道の一部では、今でも天皇を“神の血統”として崇めている為に、そういった宗教儀礼をやってるのである。さっきも書いたが、伊勢神宮の神札というのは、言ってみれば、信仰上における天皇の御印であり、それを拒むという事は、国家としては許されない…というのが、軍事政権下の日本であった話である。もっと言えば、その事が原因で、大日本帝国憲法GHQによって否定されて、現行の日本国憲法へ移行した訳であり、そこで、どの宗教団体であっても、その神札をどうするかは、それぞれの“正義”に基づいて取扱うべきとした訳である。つまり、日本国憲法における“信仰の自由”とは、天皇の否定でも神札の尊厳の保障でもない。あくまで、個々のレベルで天皇に対する意見はあっても、それ故の行動…尊王攘夷のテロや、皇族への危害等を許してはいない。そこを履違えてはいけない。
何度も言うが、先人が行った行為を見て、子ども達はこの国の将来を担う者として育てられるので、マスコミが自分達の都合を垂れ流すのは、後々、国家が崩壊する引き金を引きかねない。その自覚無き報道が増えた事を考えれば、今の若者がネット依存になるのも無理はない。しかし…ネットはマスコミ以上に“表層の情報”でしかない。ネットで色々と調べられる事であっても、最終的な判断は、現場へ行くかどうかである。一度でも現場で見聞きし、体験した事があれば、その情報の“ウラ”を取った事になり、他者に対しても、情報として流す事ができる。でも、その情報のみで判断して、自身が失敗した事も報じてこそ、それは意味がある訳で、そこに、個々の感覚的な温度差があっても良い訳である。だから、今の“さとり世代”を一喝するなら、まずは、その“経験値”を問うべきであって、情報で満足してる人に対しては、敢えてその情報の否定を行って、興味を誘わす様に仕向けないと、本当の意味での“世間知らず”ばかりが増える事になる。知るは一時の恥でも、自分にない感覚や情景を知らずに批判する事程、恥ずかしい事はない。しかし、恥を掻く事を恐れてる様では、何も学べない。恥を掻きたくないからと“価値観”という名の殻に籠ってる事こそ、一番の“恥”だと悟れた時、もっと知識は豊かになる。