迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

さて、選挙権が18歳に引き下げとなった訳だが…

今の10代に国政がどういう風に眼に映るのか、わかった上で論議してるのだろうか?正直な話、今の若年層が選挙に行かない最大の原因は、件の国会議員が、自分の意見を押し通すために暴力振るうわ、ヤジ飛ばすわと、全くもって大人気ない態度をやり続けてる事が、子供ながらに“みっともない”と感じるからこそであり、また、アニメやラノベの世界では、むしろ10代の“指導者”が世界を変革に導く内容の話が多い事から、そういう“若者に世界を託す”気概のない者が国会議員である事自体が、余計に若年層の“政治離れ”を深刻化させてるトコがある。言い方を変えれば、60歳過ぎたら、とっとと政界から去れ…というのが若年層の気持ちにあって、だけど、それに似合うだけのカリスマ性がある同世代がいないがゆえに、誰一人として政治に対する期待感がないんで、結果的に“選挙に行かない”って事になる。これがどんなに、民主主義国家にとって危機的状況なのか、誰一人、しかも正しく教えられないモンだから、余計に困ったモノである。当然だが、教えてもらえる機会があっても、それをやってくれる人自体が偏った思考で凝り固まった挙句、若年層を“自分の手駒”という概念でしか取り扱わないから、余計にタチ悪い訳で…
とはいえ、諸外国では選挙権に関する規定はどうなっているかといえば、共和制であろうが国民議会(立憲君主)制であろうが、基本的に、選挙を行っている国や地域では、自国籍保有者として戸籍がある16〜18歳以上から選挙権を有するとしたトコが殆どで、ぶっちゃけ、選挙をやらない国(=絶対王政、または一党独裁国家)では、そもそも選挙権自体が一般人にはないw(だって、選挙そのものがないからw)んでもって、一部の国や地域によっては、どんな選挙であっても投票に行かなかった場合、参加できない正当な理由(病気や怪我で入院中とか、海外出張で選挙期間内に不在とか…)がないと、一時的な公民権停止や罰金などが課せられる。日本の場合、そういった罰則規定が存在しないため、別段“不参加”でも問われる事はないが、そのツケが今、どういう風に生活に及ぼしているか…そこんトコをよく考えてほしい。
で、マスメディアは必死こいて安部総理を“独裁者”に仕立てようとしてるが、そういうのを求めたのは件のメディアであり、そして、今まで日の目を見なかった学者風情である。なぜなら、今の憲法学者の殆どは学生運動をやってた世代であり、ぶっちゃけ、自分の思い通りな世界になっていないからこそ、無理やりでも自分の思い描いた日本に作り変えようと躍起になってる訳である。そう、さっきオイラが指摘した、若年層を“自分の手駒”にしか思っていないと表現したのは、まさにコレである。言っちゃ悪いが、村山政権下で日本は中国や韓国に対し“永遠に”謝罪し続けるべきだとした事で調子扱いたのが、現在の中国や韓国の、いわゆる“反日派”とされる連中で、それが結果として、諸外国での“マナーレス”に繋がっているのは一目瞭然。本来であれば、中韓は、いわゆる“村山談話”に対して、これ以上の謝罪は、却って自国の発展を阻害する原因になるとして否定しなきゃいけなかったのに、それをしなかった事で、今日のグダグダに繋がるのである。まして韓国の場合、日本に対する不信感の最大の要因は、戦争で欧米諸国に“負けた”事が祖国分断を招いたという、いろんな意味で明後日な方向の恨み節を唱えるために反日になってるトコがあり、もっと言えば、腹の底ではアメリカを憎んでるからこそ、憲法9条を理由にアメリカに対して反撃しない日本が憎たらしいのである。同じ理屈は中国にもあり、当初の予定では、日本の敗戦を認めさせるだけでなく、国土の一部を併合し、戦争責任…というよりも、自分達の理想通りの社会にするために目障りな天皇・皇族を滅亡させるべきだという概念がどっかにあり、それを声高に、しかも世界中に言いまくると、却って国連で叩かれるから表に出さないだけだと考えれば、自ずとしっくり来る。つまり、極論を言えば天皇の“公開処刑”こそが最大の“謝罪と賠償”であると考えるバカが実権を握ってるため、どうしても“それじゃ世界にバカにされるよ”と良識ある庶民が注意しても、それを“非常識”として国挙げて叩くような状態を好んだ訳である。その結果、自分の我儘が世界で通じないと、その責任を日本に押し付け、それを“世界基準”にしようと躍起になる訳である。
話があらぬ方へ向いたが、こういう事にならないように、社会を支える基盤は、自分自身にかかってる自覚を持たせるように指導する事が、学校…特に社会科での授業に求められるのであって、そこの部分で“共産主義こそ正義”とか、“天皇万歳”とか、いろんな意味で偏った思考で正邪を決めつける教育であってはならない。むしろ、自分自身で考える事にこそ、社会を良くするヒントは存在するのであって、そのための体験学習や歴史上の記録の研鑽がある。そういったことを、義務教育の期間にすっぽかした上で、しかも、高校や大学の入試に心血注いだ指導すれば、大量に“頭デッカチなバカ”ばっかりの状態になるのは当たり前である。だからこそ、気をつけないといけないのは、所詮全ては“他人事”だという感覚で物事を見る姿勢と、その反対に、“全ては自分に繋がる”という概念で物事を見る姿勢を使い分けられるように経験を積まないとダメだってことである。どっちか一方だけで物事を見れば、ゆえに全体像が歪んでしまうのである。ま、選挙云々よりも、今の自分がここに存在できるのは、全て先人達が自分に対して願いを込めて残してくれたモノがあってこそだって自覚できれば、自ずと世間の“歪み”の本質が見えてくるんだが…