迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“戦わない”という言葉の“違和感”

本題に入る前に…週明け早々に、任天堂の岩田社長が亡くなられたという一報に触れておく。厄介な内容の夢を見たと思ったら、やはりか…しかも、たま駅長を抱っこする内容だったから、ひょっとしてと思ってはいたが、55歳は若すぎる。しかし…治療困難な胆管腫瘍という事を考えると、覚悟があったのだと思う。たからこそ、動ける間に公式発表の場を作り、できるだけ自分の言葉で、意見で、任天堂のこれからを、エンドユーザーに伝えようとしたのだと思う。どうも、真面目な経営者・開発者ほど早死にしやすい様に思えて仕方ない。これからの任天堂の方向性を注視せざる得ない様な気がするのは、長年のヘビーユーザーなら、どれだけいるのだろうか?

さて、この件に関して連動する話になるが、どうも安保法案関連でデモ行進してる学生の姿が報じられてるが、なんか勘違いしてるバカが多いな。その文言に“我々は戦いたくない”というのがあるが、ちょっと待て?デモ行進や公道封鎖の座り込みは、立派な“権力闘争”である。本気で“戦いたくない”というのであれば、世間と関わる行為を、一切やってはいけない…つまり、全てから“手を引く”事こそ、本当の意味での“不戦”の実行であって、政府への抗議を目的として公道封鎖やシュプレキコール等は、実は兵器を使わないだけの“テロ行為”でもある。言い方変えれば、件のアラブの厨二病患者連中と変わらん行為をやっているという自覚がないのだ。
デモやハンガーストライキ、炎天下での座り込みや原発に通じる公道を“人間の鎖”で封鎖する行為も、それは物理的に破壊活動を行う事ではないからという言い訳をするバカがいる様だが、どんな抗議活動も相対する勢力がある以上は“闘争”なのであり、それが通じなくなれば、必ず物理的破壊活動へと至る。本当に戦いたくないのであれば、自分の理想を挙げる必要もなければ、それを叶えるための努力をする必要もないし、そもそも、誰かと勝負する必要もない。自分の理想を叶えたいから、自分が描く夢を体現したいから、みんな勉学や鍛錬を積み重ねるのであり、その実力を試すために、必ず勝負する時が来るのである。それを“放棄”すると言ったのであれば、いわゆる社畜になろうが使い捨てになっても文句は言えない。だって、自分自身から“生きる権限”を放棄したのだからw 自分の思い通りにならない事、まして自分が犠牲になる事が怖い人ほど、世間を理不尽だと訴えるが、その理不尽を生み出してるのは、自分という“存在”がある以上は、必ず付き纏う理である。これを知らずに騒いでる事ほど、自分の時間を無駄にしてる事を知らない。なぜなら、抗議活動に費やす時間があるのなら、その分を別の鍛錬や勉学に費やすべきであり、それを阻害してるのは、いうまでもなく、自分の意見に近い意見を持つ活動家の言葉である。そう、主催者と称する老人共の戯言に付き合っている学生は、そのせいで就職活動や、それに役立つ資格の習得が遅れる事になる。それに気づかない様では、社会に出ても理不尽な就労条件に耐えられず、結果として“使い捨て”な仕事しかできなくなる。
岩田社長にしろ、Appleジョブズにしろ、本気で社会に対して“サプライズ”を起こそうとした企業人・経営者は、自分の命を惜しまず、限られた時間を目一杯使って、常に革新的な事をやっていった。同じ様に、菫華の君も自分の命と引き換えに、自分の居場所は“ここにある”と言わんがばかりに、最後まで競馬を実況し続けた。これだって、一つの“闘争”である。国同士での戦争する事だけが“戦争”ではない。真の“戦争”とは、生きる事そのものである。だけど、肝心なのは、自分自身の命を賭して“何がしたい”のかである。その目標がある以上は、余計な他者の言葉に惑わされてはいけない。情報を仕入れても、自分自身の目標と関係ない項目は、聞き流す程度で放っておけばいい…それによって自分が世間から見放されたからといって、それを“理不尽”と感じてはいけない。なぜなら、自分の意思で選んだ道である以上は、その道に対する責任は、それを選んだ自分自身にあるのだから。それを他人のせいにしてる時点で、自分の叶えたい事なんて、何の価値もない。
だから、“戦わない”というのであれば、今すぐ他人にその座を譲れ。金銭的に学校に行けなくて、だけど勉学に励みたいという人がいるのであれば、その人に機会を与えるべきであって、そこに居座る必要はない。就労したくてもできない人は、どんな“理由”があってそうなったのか、考えろ。特に女性の場合、DVや児童虐待、ストーカー被害等から、素性を明かせない事がある。そういった事も知らずに、不就労(要生活保護)女性を罵る行為は、自分が同じ被害にあった時、今自分がやった事が、倍返し以上のカタチで襲いかかってくる事を覚悟すべきである。まして、別れ話が拗れて、相手に殺されたら洒落にならない…昨日大阪で発生した事件は、共通の知人に付き添われ、万全の体制だったとしても防ぐ事ができなかったのは、そういう事である。どっちにしても、悲しい話ではないか。
それでも“戦う”事が嫌なら、今すぐ人間である必要はない…どんな家畜でも、“飼い主”に恩を感じてる以上は、自分の命と引き換えに主(あるじ)に尽くそうとする。馬や犬、猫であっても、人を想い行動を起こすモノはその“相手を思う”心こそ、“人間”なのであって、霊長目ヒト科ホモサピエンスだけが“人間”ではない。そこを履き違えて、戦争反対を訴えても意味がない。相手を信用しない以上、相手を見くびっている以上、疑心暗鬼が自分の心理を支配する以上、必ず戦争は起きる…相手を信じる事は、その信心に対して責任を負う事を意味する。それが嫌で罵るのであれば、自分自身が“人間”である必要はない。仕事場において余計な事を考えずに行動できる者とは、生体CPUを搭載したロボットだ…それは決して“人”ではない。とあるベテランアナは、学生時代にいわゆる学生運動に勤しんでいたが、その様子を見た父親にこう諭された…“自分の目標を見失って、無意味な抗議をやってたら、幕末の志士や新撰組が、草葉の陰で嘆くぞ”と。その言葉をもって、彼の者は学生運動から身を引いて、演劇の研究に勤しんだ。もう一人は、自分が警察に連行されたのではないかと心配し、町中を駆け回った同級生の姿を目にし、自分がやってる事が、どれだけ親友に、両親に迷惑をかけてるのかを知り、自分が目指すべきモノに対して集中する事を誓った。そういう存在をも無視して暴れるなら暴れればいい…それがやがて、自分が思い描いた夢を破壊する行為だと気付いても、もう遅い。