迷馬の隠れ家 はてな本館

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中立・公平な存在は、いろんな意味で“敵”だらけw

いわゆる左翼が、とあるタレントの純粋な意見に噛み付いてTwitter上で大炎上を起こしたんだが、彼の意見は至極真っ当、且つ、公平な意見であり、決して左翼が言う“右翼発言”ではない。これが、全く逆の立場であったとしても、彼自身の意見は同じだと思う。では、なんで左翼の意見こそが“正義”という発想に至るのか?その結論は至極簡単…自分の世界観こそが“完璧”であるから。しかし、このはてダでも書いてる通り、自分主観での“完璧なる世界”ってのは、他人から見れば欠陥だらけで、しかも当人以外は“住みにくい世界観”でしかない。Twitterでも呟いたが、他人を批判する人で、自分の意見・思考のみに固執する人ほど、実は周囲との調和を非常に嫌う…なぜなら、その“完璧なる世界”を他人から批判され、破壊されるのが嫌だから、他人の意見を無視し、事業や計画を阻害するのである。これは左翼だろうが右翼だろうが関係ない。自己に固執するあまり、周囲との協調ができず、環境に適応できないのである…ある意味での“発達障害”と言っていいだろう。ただし、語弊がない様に言っとくが、病理的な発達障害は脳の機能異常であって、アスペルガー自閉症の場合、一見すると気狂いだが、よく観察すると、特定分野に関するスキルが異常なまでに発達してる事が多い。真っ当な健常者なら根を上げる様な状況でも、異様なまでの集中力や繊細な感覚があるのは、故の“欠点”に対する“利点”でもある。
閑話休題。では、真の意味で“公平・中立”という立場のものとは何を指すか?その答えは“孤立無援”である。つまり、誰しもが“敵だ”と認識する様な存在である事が絶対条件になる。言い方を変えれば、いろんな意味で“日和見”な存在で、自分の立場如何で、様々な状態に見える存在を表す。ぶっちゃけ論でいえば、学会員の立場とは、本来であればこの部分である。しかし、よくあるのは、それ故に世間から叩かれる事である。かつて、池田先生はキューバ旧ソ連、中国に行って、カストロ議長や周恩来国家主席ゴルバチョフ書記長(→大統領)などと対談を行っているんだが、当時、日本の立ち位置は、アメリカやイギリスなどと同じ、いわゆる“西側諸国”の一員であり、共産系国家のトップと面会する事自体、日本だけでなく欧米諸国で叩かれた。しかし、多くの宗教学者が世界の行く末を案じた時、国家のトップに対して“人間”として対話をしたいと申し出る人はなかなかいなかった…それをやってのけたのが、日本でカルト教団だとか危険分子だと叩かれていた創価学会の長であり、その行動を見た多くの有識者…特に宗教哲学に精通した人々からの支持を集め始めると、途端に欧米諸国のトップですら、公務の時間を割いてまでわざわざ日本に出向いて、あるいは、特使を派遣してまで“話を聞きたい”と申し出る様になった。そのきっかけは、中国とソ連が“一触即発”状態になった時、その仲裁に入った事である。双方にとっての“相談役”を敵に回す訳にはいかない…この一件以降、日中国交正常化交渉や北方領土沿岸での漁業権などの交渉事に関して、日本が優位に話せたんだが、それを阻害したんは、言うまでもなく、件のマスメディアであり、そして自民党の一部会派であった。その手柄が欲しいあまりに、創価学会の存在を潰し、横取りしようとしたのである。ま、その会派に属してた議員がどうなったかについては、ここでは触れないでおくが、その一件で土下座したのが小渕恵三であり、小泉純一郎である事だけは、一応言っておく。この件がなければ、自民党はとっくの昔に解党してただろうし、もっと言えば民主党政権…否、日本共産党が政権を奪って、天皇公開処刑にかけていただろう。
前回の記事でも紹介した、崇峻天皇御書の一節“不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ”とは、そういう事である。つまり、バカにするのであれば、それに似合うだけの実践行動と結果を積み重ねる事であり、それができないくせに、あるいは、批判される事に怖気付いて尻込みしてる様では、自分が思い描く“完璧な世界”なんぞクソくらえになる。もっと言い方を変えれば、何も知らずに他人を批判する事は簡単だが、いざ自分がその立場で、現状のスキルのみで“戦え”と言われ、何もできずにサンドバック状態になった時、それでも立っていられるかって事だ。不軽菩薩は、相手を軽んじる事を禁じる戒律を守るために、不特定多数の人々に声をかけ、頭を下げた。でも、意味がわからない人々は、故に不気味がって暴行を加えた。でもある日、誰かが不軽菩薩と同じ事をやろうとしてみたら、それがどれだげ“凄い事”かを思い知らされ、猛反省して敬う様になった…勘違いして欲しくないのは、面白がって暴行を加えた連中には、さすがの不軽菩薩も殴り返さなくても防御や攻撃を避ける事はしてたし、どんなに言葉で説明したところで、それが頭に入るかどうかなんてのは相手次第である。故に相手を敬う気持ちがあっても、その受け手側が疑心暗鬼だと、そして“自己の正義”に固執する様では、その“救いの手”を差し伸べても、払い退けられるのがオチである。
かつて、周恩来文化大革命後の中国に関して、一抹の不安を池田先生に漏らしていた。それは、教育の現場でのイデオロギー思考がまかり通る事である。そしてその不安は今、習近平国家主席体制になって以降、鮮明になってきている。都市と地方での“教育格差”が、肩書きを不正に振りかざす党幹部の腐敗が、如実にまで現れている。ゴルバチョフ元ロシア大統領も、プーチン政権以降の国家運営が、かつてのソビエトに戻ろうとしてる事に懸念を抱いている。国民の支持を得たいあまりに、特に貧困層が国家運営に不満を漏らさない様にする為に、どれだけの嘘を、配下のマスメディアを通じて行っているか…それが転じてウクライナ情勢や南シナ会での不法占拠に繋がっているか。全ては、為政者がカッコつけて嘘をつき続けた結果であり、素直に、ありのままの現状をキチンと教えていれば、たとえそれを理不尽に感じても、ある程度の納得を得る事ができる。要は国家の上層部の“強がり”に、情報弱者貧困層は騙され、そして振り回されている事が全てであり、真実を信じられない人には、一切通じないのである。仮に、それを信じてくれる人がいても、その事が原因で、見ず知らずの他人から迫害を受ける可能性がある。これほど恐ろしいモノはない…無知と自己の正義に凝り固まった人に、都合の悪い真実は“虚構”であり、自分が思い描いた理想こそが“完全なる存在”なのだから。