迷馬の隠れ家 はてな本館

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“三類の強敵”別、相手を納得させる対話法w

学会員のみならず、日蓮仏法系宗教団体に属してる人ならよく聞く言葉に、“三類の強敵”ってのがある。で、それはどんな分類かといえば…

俗衆増上慢(ぞくしゅうぞうじょうまん)…一般的に、デマや風潮に振り回されている人を指す。

道門増上慢(どうもんぞうじょうまん)…他宗派、および異教徒が、自分トコの宗派以外に対して批判的な概念を持つ人を指す。

僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)…肩書きや功績が讃えられているのを良い事に、他人をバカにしている人を指す。

ざっくり言えば、こういう事である。(ま、詳しい解説は、過去に散々やっているんで、ここでは割愛w)本来の意味であれば、これは正法流布を行う上で障害となる存在として取り上げられるのだが、これは何も、宗教に限った話ではない。安保法案に関する事や原発問題など、様々な部分で肯定派と否定派がいるのは当然としても、相手を一方的にやり込め、排除しようとする人ほど、実はこの“三類の強敵”のどれかに該当する事が多い。だが、共通して言えるのは、無知である事と、すべて“他人のせい”にして自分が世話になっている事や、自分に関係した事案である事を棚に上げている事が多いって事である。言い方変えりゃ、自分より“劣ってる”と思う相手をバカにして優越感に浸っている、まさに“自惚れた愚か者”って事だw
では、この“三類の強敵”をどうやって諭し、窘める事が出来るか?重要なのは、相手が“どんな存在”なのかによって、若干、対処法を変えないと厄介な点はあるが、基本的には相手も”同じ人間”である事を肝に命じ、そこを突いていく事に焦点を絞れば、自ずと答えが見えてくる。つまり、どんな肩書きであろうと、どんな種族であろうと、どんな哲学を持っていようと、所詮は相手も“人間”である以上、必ず自分自身の矛盾に気付き、後悔する時が来る…そこを如何に諭せるかです。
まず、俗衆増上慢への対処法だが、これは非常に簡単w まず、“その噂話は誰から聞いたの?”と問い質してみよう。俗衆というだけあって、おそらくメディアの情報を鵜呑みにしたり、発言者が単に著名人であったり、自分の周囲の人々が…と、とにかく“他人のせい”にしようとする。ぶっちゃけ、実体験や現状を信用せず、不特定多数の風潮や虚構は殆ど疑わないという、なんともエエ加減な態度で、中身が全然伴っていないのがオチである。SNSなんかで都合のいい話だけをピックアップするのもいいが、反対側の意見や提案も比較して、そこから議論を進めていけばいいんだが、そこまで考えが至らないからねぇ…
次に道門増上慢の場合、これは先に、相手の組織・宗派を侮辱してはいけない…ここが肝心なトコで、自分トコの思想が完璧であればあるほど、ボロカスに貶される事がクソ腹立つのであって、それ故の“報復”として嫌がらや風説の流布をやる訳である。逆を言えば、本物の宗教家・哲学者であればあるほど柔軟な発想と、相手を理解しようと努力し、排除や破壊を考えない。言い方を変えれば、自分の宗派と同じ意見に対して、違う宗派の者だからと見下したり、バカにしてる時点で、すでに宗教哲学の理に反してるのであり、様々な意見を取りまとめ、納得できるカタチに持って行ってこそ、初めて話が通じるのである。要は“摂受・折伏時に拠る”の法則ですw
んでもって、僭聖増上慢の場合、これは単純に“肩書き”は“排泄物”だって事ですw ビートたけし…というより北野武が映画監督として国際的な賞を初めて受賞した際、“賞はクソだ、早く流さないと、次が作れない”という趣旨の発言をしたんだが、至極真っ当、且つ、謙虚な答えだ。なぜなら、その肩書きに傲れ、鍛錬や勉学を怠れば、どんなにいい作品、面白い発想をしても、他人からその“肩書き”故にボロカスに言われるのがオチだって事だ。これは、先日、芥川賞を受賞したピースの又吉直樹にも言える事で、“芥川賞作家”という肩書きが“お笑い芸人”という本文を阻害してるなら、とっととどっちかを“捨てる覚悟”を持たなければならない事を意味し、中途半端に芸人としての顔を維持しようと思うなら、それ故にどっちも成り立たなくなるという事だ。事実、“ビートたけし”としてテレビでレギュラーを持っている番組は、国際的な映画監督としての意見ではなく、一人の“芸人”としてのスタンスでモノを言っているのであって、仮に、“北野監督”としての功績でモノを言い始めたら、全然面白くない人に変わり果てる。故に、物事を話す時には“愚民”の立場で話す事を忘れていないから好感が持てる訳であり、逆に過去の栄光や功績、著名な賞を獲得した事を振りかざしてモノ言ってる人の見識の無さは、見苦しさを通り越えて哀れにも見える訳である。何度も言うが、肩書き…特に過去の出来事に対する評価ってのは、あくまで一時的なモノに過ぎず、そこに縋っている以上、そして、それを理由に民衆に担がれている以上、自分の思考が支持されてると勘違いし、そこに閉じ籠ってしまうのである。だから、やってる事と言ってる事が支離滅裂になるのであり、他の民衆と変わらんほど無知なのに、自分が有する“肩書き”に振り回されている自覚がないのである。これほど恐ろしく、そして愚かな話はない。
つまり、自分が“人間”である以上、自分と自分以外の関係性を把握した上で話す分には対立しようが共有しようがどうでもいいのであり、それを“理由”に自分と相手を比較し、自分の方が完璧だと思えば思うほど、周囲が見えなくなっていく事に気付かないといけない。これがわかっている人は、故に自分の意見よりも他人の意見が優れているならそっちに乗るし、それがおかしいと思ったら、自分から退く事で関係性を断つ事ができるのである。それを他人に強要したり、自分以外の思考や概念を排除しようと躍起になったら、それこそ一番愚かな行為でしかない。中国や韓国が日本に対して強引な事をやっているのはまさにこれであり、過去に縋る事でしか民集を統治できないのであれば、これほどバカバカしく、そして未来に深刻な影を落としてる事はない。元自衛官と称する人のBlogで、安倍総理は自分達を使い捨てにするつもりかという趣旨の文章を掲載していたが、だったら、その制服脱ぐ前に、なんで当時の総理大臣や防衛大臣の頭を撃ち抜かなかった?戦前の二二六事件ってのも、史実によれば、青年将校が軍の腐敗と政府のgdgd振りに業を煮やし、首相官邸などを襲撃したクーデターである。この事件の詳細は割愛するが、同じ事を自衛官がやれば、世論はあの時と同じように真っ二つになるでしょうな…クーデターを起こした自衛官を支持し、再び軍国主義へと走るか、それを阻止するためにも自衛隊の解体を求め、それ故に近隣諸国の侵略を許すか…どっちに傾いても、その“責任”は国民である自分自身に降りかかるのであって、誰のせいでもない。だから、一番惑わされてはいけないのは、現場の人間だからといって、なんでもベラベラ喋る人は信用してはならないし、立派な肩書きを有している人であっても、自分の専門分野以外に関して無知である事を失念してはいけない。対等なる立場ってのは、どこまでも互いを信じあえる状態でなければ維持できないのであり、それがわからない人ほど、自分の肩書きや地位に傲れ、優越感に酔いしれたいあまりに見下そうとするのです。ま、それ故に落ちぶれ、勝手に相手を妬み、自分の地位を奪ったと騒ぐのです…自分が“望んだ”結果なのにねw