迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

笑いの“ツボ”がズレてる件について…

まずは、この記事を読んでもらいたい…陰湿というより、こんなに派手に、しかも加害者的には爽快だったに違いないだろう。しかし…被害女児の将来的な事を考えた時、このツケは必ず、加害者全員にのしかかる事になるだろう。小学生がやった事とはいえ、はっきり言ってこれは“傷害事件”であり、場合によっては整形手術を受けても、元には戻らないほどの重症であれば、確実に加害児童の両親は経済的に苦しむ事になる。(損害賠償請求が満額認められる事はなくても、保険適用範疇を超えるような医療費が請求される可能性はある。)実はオイラも、こういう類似したいじめを受けたクチなんでよくわかるんだが、それにしても、これは酷いし、第一、オイラみたいに反撃できるだけの体力や武器を持っていない相手をボコった訳だから、どんだけ弱いよ?言っちゃなんだが、オイラの場合、やった奴相手に蹴り倒した事あるからなぁ…しかも学校の校舎内で、担任目の前にしてねw 今の学校教職員は、とにかく“事なかれ主義”が横行してるから、むしろこうやって、自分をあえて“加害者”にする事で問題をあぶり出す事でもしないと、わからないんだよなぁ…件の教職員自身が、そういう経験を幼少期に受けてないから。むしろ、クラス内でいじめがあっても“傍観者”を決め込み、んでもって、被害者が痛みを訴えても、その無様な姿を嘲笑う…今のテレビでも、そういうの、横行してませんか?それじゃ視聴率が伸びなくて当然でしょうな。
正直、小学生までのガキってのは、マジな話、残酷な事ほど大ウケするケースが多く、たとえ目の前で自分と同級なガキが交通事故で死んでも、それ見てゲラ笑いするからなぁ…後で青ざめて震え出すんだけどな。なぜなら、被害に遭っているのが“自分じゃない”からなんだよな。熱射病で倒れようが、野球のファールボールが頭直撃しようが、自分だったらともかく、他人…特に自分より明らかに弱いヤツとか、自分にとって“気持ち悪い存在”とかが、そういう被害に遭えば遭う程笑うんだよな。そこには一つも“悪気”ってのがない。とにかく、“自分じゃない”からこそ滑稽だし、どういうドジは“自分はやらない”って自信があるから、被害者がどんな訴えを起こしても“他人事”として笑えるんですよ。けどねぇ…それがいざ自分が“被害者”になったら、それこそ本当に、大げさなぐらいに落ち込んだ挙句、自殺したいぐらいに自分の失態や被害に遭遇した事を恥じるんだよなぁ。言っちゃなんだけど、そんな事でいちいち命、投げ出しとったら大人にもなれんわ。あ、“大人”になりたくないからこそ、他人を嘲笑う側にいたいんだよな?だったら考えろ…死にたいぐらいの屈辱を味わった者が、どうやって今日まで耐えられるのか?簡単なんだよ、“そんな事”って大した事ねぇんだよ。どんな侮辱を受けようが、どんな酷い暴行を受けようが、一生残るような傷を負おうが、生きてる限り…否、自分が自分である限り、その痛みも、恥も、他人に比べたらどうって事はないんだよ。もっと悲惨な目に遭ってても、笑顔で日々を過ごせてる人もいる…そんな人にとって、自分が今まで味わった屈辱や恥なんてのは、些細なモンでしかねぇ。70年前の原爆で火傷を負った人でも、避難先の人々から“ピカが移る”と言われて、忌み嫌われた挙句暴行を受けたなんて話を聞くと、自分の身に起きている災難なんてのは、結局は無知である事と、自分自身がそういう目に遭いたくないからこその“畏怖の念”から暴力を振るうんだよ。安保法制に反対する集会で、デモの警備に当たってる警官をブン殴るのと一緒でさ、自由じゃないから、自分の思い通りじゃないからってダダ捏ねて騒いでるのと一緒。自分の思い通りになる事こそが“正義”なんだよなぁ…ガキの頃の考えは。
ぶっちゃけ論でいえば、いじめをやる連中は、精神的に“弱い”んだよな…自分が“世界で一番強い”というブッ飛んだ概念があるから。でも、本気で強いヤツってのは、精神的にタフだよ。体力がなくて、学校成績がビリで、どう見たってブサイクで…でも、そういうヤツほど、“今の状況”が当人にとって“日常”なのであり、“普通”なんだよ。だから、どんな事をやられても、年を重ねる毎に打たれ強くなるんだよ。そうじゃないヤツがある日突然、謂われなき暴行を受けたりすればどうなるか?当然ながら、同級生に笑われた経験もなければ、今まで目立ったカタチでの侮辱を受けた経験もない様な子が、突発的にそんな目に遭えば、それまで大人しくしてたとしても、急に“死にたい”なんて言い出すの、当たり前じゃないか。で、それを“テレビのバラエティー番組でもやってたから”って言い訳が通じると思う?通じる訳ねぇだろ。テレビの芸人…特にブサイクな見た目やおバカなイメージで売ってる者の場合は、やられる事を分かった上で“演じて”んだよ。だけど、それが“面白くない”からといって無茶振りするバカな制作者…特に放送作家に多いんだよな。で、アイドルの顔を蹴ったり、危険な猛獣に体当たりをさせたりする訳。それとて、放送作家やディレクター等の現場の連中は“全てはスポンサーのため”とか言ってる訳で…それ、視聴率っていう“まやかしの数字”に縋ってるだけの話。同じ理屈は国会前や米軍基地前などで無駄なデモをやってる連中も一緒。支離滅裂な“言い訳”をした上で責任を逃れようとしてるだけ。マジでバカバカしいなw
かつて、努兄が“あどラン”本2冊目に、“視聴率はもとより、視聴質の高い番組にしたい”という旨のコメントを書き記してるんだが、これ、ガチで今のテレビ業界にこそ、学ぶべき部分だよ。視聴率だけで物事を決めつけられるのであれば、全国で散発的に起きてるデモの映像をそのまま流せば、それが有権者を動かして自公政権を倒す原動力になるでしょうな。事実、7年前のアレは、そういう流れによる“政権交代”でした。しかし…蓋を開けてみると、有事の時に何もできないどころか、むしろ人的支援や救援活動の邪魔をしただけでなく、余分な被害を増大させる結果になったのはいうまでもなく、そして、その当時、政権打倒に奔走した有権者は、次の衆院選において、そのほとんどが“投票拒否”という選択をしたのです…そう、有権者でありながら、その“責任”を負いたくないあまりに、国政選挙で逃げたのです。投票率の低さとは、要するに有権者たる者が、その“責任”を放棄してるからこその結果です。これを“数の暴力”というのであれば、とっくの昔に“民主主義”ってのは廃れてるのと同意ですわ。なんせメディアは国がgdgdになったんは“視聴者のせい”にした訳だからねw 自分達が報じた、余計な情報に騙された挙句、責任を押し付けられたら、そら、堪ったモンじゃないわ。だから選挙に行かなくなるんですよ。
閑話休題、要するに、肝心な事を忘れて、単に自分自身を“普通”な存在としてボカそうとするからおかしくなるのであり、突発的な“サプライズ”を仕掛けて、いじめを助長させるのは“他人のせい”とか“他所からの影響”とかにしてる時点で、問題の解決になる訳がない。いじめに謝罪と賠償を求める必要はない…けど、自分が犯した罪の重さを、きちんと理解させるためには、分相応の制裁を、なんらかのカタチで請け負わせるのが不可欠である。幼少期の“やんちゃ”をきちんと叱って、そして、“罪の重さ”ってのを理解させる教養がある大人が周囲にいないのは、加害児童にとって、一番の不幸である…トラウマになるほどの後悔が、大人になった時に、精神的に思いがけないカタチで襲いかかってくるから。