迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

デモしたら“殺人予告”来た…ま、因果応報ですわw

粋がって政府への抗議活動やってたバカ学生が、殺人予告を受けたという話…あのなぁ、そういう事を受けるのを“覚悟”した上で抗議するのがスジであり、迫害を受けずに事が治まると思うのは、浅はか以外のなにものでもない。まして“正義”を掲げてる以上は、それに敵対する“正義”とぶつかる事は必然の話であり、そういう覚悟も、そういう事態を受け入れられる度胸…というより寛容性がない人間が、単なる脅しにビビる様では、掲げた理念の底が知れてる様なモンである。そもそも、犯罪予告の多くは、単なる愉快犯であり、世間を騒がす事が目的であって、本当に犯行を起こす事はない。(もちろん、例外事項がない訳ではないが…)
自分の“正義”に固執してる人ほど、実は自分自身がニート以下な状態にある事に気づいてないという事に関しては、このはてダで何度も書いた事だし、Twitterでもユビタコになるまで呟いてるから今更なんだが、要するに、“ちっさい自分”を打ち破りたくても、その“自分の描いた理想郷”から離れる事が怖くて怖じ気付いた状態のままでいるから、他人の成功や功績が羨ましく、そして、非常に“憎たらしい”のである。富裕層に対して貧困層が妬む様に、優秀な学業成績を誇るエリートに落ちこぼれが僻む様に…でも、それって反対側から見たら、本当にどう思うかは、当事者の感覚次第なのであって、金銭の有無や肩書きの意義などは全く関係ない話である。つまり、どんなに頭が良くても、どんなに恵まれた体格を持ってても、それを上手く活かせない、あるいは、用い方を間違えている以上、無駄になる方が多いって事w せっかく大学まで行けたとしても、人生はその先の方が長い訳だから、自分が掲げる“最終目標”に向かわない限り、ある意味“無駄な時間”を使う事になる。逆に、中卒止まりで就職した者であっても、仕事を通じて、あるいはメディアが報じる情報を介して、様々な事を学ぶ事ができる人は、広い視野でモノを見る事に長けるため、結果として賢者になりやすい。
釈尊在世の時代から、自己の“正義”を掲げて実践する者は、皆等しく迫害を受ける。程度は様々だが、根本的に、その活動が正しければ正しいほど、生命に及ぶ危機を迎えやすいが、大概の場合は乗り越えられる。なぜなら、“正しい”からこそ暴行を加える者、罵詈雑言を吐き続ける者自身が、冷静さを失って自己の行為を見直さないから形勢が逆転するのであり、逆に、自己の行為が“間違っている”のであれば、その間違いに気付き、修正するための研鑽を行うのがスジである。言い方を変えれば、自分が“正しい”と誇示する者と、自分が“間違っている”と臆病になる人の差は、ほんの僅かなモノであり、その見極めができない人ほど、あらぬ方へと向かうのである。つまり、カルト化する背景には、自己の正義に対して固執するあまりに冷静さを欠き、何が何でも自分の“正しさ”を実証しようとして拗れた姿こそ、悪の本質であり、それがわからないからこそ、余計に自己の理念に埋没する訳である。もちろん、自分磨きの為に拘る事、技術革新の為に精進する事自体はいいが、だからと言って、周囲との関係性や影響を考慮せずに行えば、故に他者との感覚のズレについていけなくなる。
件の“殺人予告”にしたって、相手は本気でないからこそ威嚇したまでであり、相手する必要はない。まして、一通の予告状だけでビビるような神経だと、底が知れてるw かつて、山下達郎南こうせつ吉田拓郎は、自身がステージに立って自分の楽曲を歌おうとした時、一部の過激派から“フォーク精神を汚す者”として、生卵や空き缶を投げつけられたという話がある。今でこそ大御所だし、単独コンサートをやろうモノなら、最低でも3000人以上入れる会場(ホール・野外スペース)でないとファンが殺到して大変な事になる人達だが、70年代から80年代初頭までは、学生運動の名残もあり、またフォークソングは“若者の主張”という認識があり、多くのフォーク系ミュージシャンは、それに沿った楽曲を歌う事こそがステータスだという粋がった考えが多かった。もちろん、その時代の楽曲は、今でも名曲として輝いているモノもあるが、それを世に知らしめる手法は、今ほどいい環境ではない…だから、どんなに粋がって路上でギターを掻き鳴らして怒鳴ろうが、小さなライブハウスを満席にして騒ぎまくろうが、レコードにして一般市場に売り出さない限り、そして、放送局が取り上げない限り、その主張は否定され続ける事になる。だから、アーティストとして生きる為には、世間に反抗的な態度で粋がるよりも、スポンサー受けする楽曲も作らざる得なかった訳であり、その“苦渋の選択”を迫られてそうなっただけなのに、一部の極左思考の人達から批判された訳である。何度も言うが、自身の“生活の為”に食い扶持としてスポンサー契約を行っただけなのに、それを“資本主義に靡く者”として批判した訳である。では、そういう批判した人達にとって、“アーティスト”という肩書きの人は、どういう立場であるべきだったのだろうか?
ここまで解説して、お気づきかと思うが、極左思考の人々とは、ある意味“ホームレスを嫌う貧困層”であり、勝手に資本主義…しかも富裕層の存在を憎み僻む、全く自分勝手な存在である。もちろん、富裕層のモノであっても、所謂“成り上がり”な人や、努力もせずにその座に君臨し続けるモノは、極度な守銭奴であるが故に嫌われれて当然だが、本物の“億万長者”というヤツは、自分の配下の民に対して投資する事を惜しまないし、そのためにインフラ整備や仕事の斡旋を行ってきてる訳であり、それ故に財閥としての“責任”を担ってきた存在である。これは、世間的な組織の地位においても同じで、階級が上であればあるほど、その責任の重さは尋常じゃないし、その“対価”として賃金や優遇措置が受けられる立場である。しかし、そういう事を知らずに、ただ自分自身が“エラい人”でありたいがために他人を見下し、自分と違う考えを否定し、さらには、自分より“恵まれた”存在を憎むようになる訳である。でもそれって、冷静になって考えれば、単に“無い物ねだり”をやっているだけだし、精進や鍛錬もせずに怠惰な態度をとれば、そら、世間から叩かれて当然である。極左思考の人にとって、自分に味方して資金提供してくれる者は格好のカモであり、学生運動に参加する、理想を“正義”と認めて騒いでくれる若者を“奴隷”とみなしてこき使おうとする訳である。これ、ある種の宗教と同じです。本当に正しい教えを説く宗教であるなら、世間的な階級や地位に囚われず、自由な交流を許すモノですし、戒律があると言っても“随法毘尼(ずいほうびに)”という概念があって、“不殺生”の戒律を守る僧侶であっても、信徒や縁者から“焼肉食べ放題”に誘われても断る筋合いはないというエエ加減さであるw(江戸時代において、社殿仏閣で富くじをやる事も、実は戒律の外…という事でやってた訳で、その富くじの収益を利用して、式年造替などという名目で本堂や拝殿を立て替えした訳で、明治時代に法律で“富くじ禁止”にしたから、信徒・氏子に対して玉串料やお布施を強要するようになった訳であるw)
だから、こういう事で騒ぐ人達は、要するに自分が不幸なのは全部“他人のせい”なのです。でもそれって、ひっくり返せば他人の幸福すら素直に祝えないほど、心が卑屈になってる証左とも言えるのです。反原発や反捕鯨を訴える人々を見ればわかるかと思いますが、とても“ちっこい世界”で満足しちゃってるんですよねw で、その“世界観”を他人に破壊されたくないから、他人の幸福や価値観をことごとく否定し、破壊しまくる訳です。そら、不特定多数の人から殺人予告が大量に来たっておかしくないですわw 自分自身がやってる行為そのものが、他人にとっては“殺人予告”そのものですから…