迷馬の隠れ家 はてな本館

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“中立”という立場とは、全方位での“敵”である。

以前にもこのタイトルで記事にしたんだが、どうもTwitterで絡んできた一部アカウント(しかも当事者、ブロックして聞く耳持たない姿勢のようだが…w)が、とても残念な事を言ってたんで、この際オイラの立場を、はっきりさせておかないとダメだと感じて、再度書かせてもらう。正直、オイラは結婚を機に大阪府民ではなく奈良県民になった訳であり、大阪のW選挙に関しても、“有権者”に非ず故に、結構どうでもいい事を言ってるのであり、それを参考に誰に投票するかどうかは、当該有権者である大阪府民、並び大阪市民に委ねる部分である。言い方変えれば、大阪の住民ならともかく、他府県の人間がどうこう口出しする事自体、大阪の住民に対して“失礼”な事である。もっと言えば、他府県の人間にとっちゃ、歯痒い話ではあるが、こればっかは大阪府民&市民の胸算用一つであって、知ったこっちゃないで片付けるべき事である。
正直、本当の意味で“中立な立場”というのはどういう状況を指すか?その究極の答えは、どちらの味方にも非ず、むしろ怨敵として憎まれるべき立場であり続ける事である。究極の“いじめられっ子”を買って出る度胸と、自分の発言に対し責任を取る勇気、そして“嫌われ者”としての生き様を貫く覚悟がなければ、この立場になる事はできない。つまり、いわゆるネトウヨサヨクの、そのどちらからも嫌われ、尚且つ、その双方から“相手側の味方”と勘違いされるような立場である事が、実は一番物事を公平に、かつ厳密に俯瞰してる立場なのである。もっと言えば、本当の“嫌われ者”というのは、実はいつでも日和見な立場のように見えて、実は冷酷に、そして厳粛なまでに物事を吟味できる存在なのである。だから、思考的に偏重した概念に堕ちた者にとって、その“見え方”が“鏡写しの姿”である事に気づかないから、どうしても自分の意見と違うという一点のみで嫌う事になる。
偏重した状況下において、自分の概念を“基準”とした場合、いかなる思考や意見も、自分にそぐわないと判断した時点で、相手の思考こそ“偏ってる”と批判するのは、それこそ、自分自身の“歪んだ姿”が、相手を通じて眼に映るからこそであり、故に“公平な立場”で意見を聞きたいと相手や他の者が言っても、すでに自分自身を批判し反発すると勘ぐる上に、その通りの状況になると、もう“怨敵”というレッテルを貼る…つまり、自分の“醜い姿”を見たくないからそうする訳であり、そして自らの価値観を押し付けるあまりに、批判された事を逆恨みする訳である。そう…自己中心な態度をとってるのは“自分自身”である事に気付かず、そこを指摘しても、受け入れられないぐらいに“ちっさい”のである。これは、安保法制に対して、あるいは普天間基地原発の前で“抗議活動だ”と称して住民生活を阻害してる連中自身が、“なんのために抗議してるのか”という問いに対し、明確な意図を答える事ができないのと同じで、要は自己の“正義”に酔った結果、他者に対し途方もない迷惑をかけ、恨みを買ってる事に気付かないのである。
つまり、橋下批判も、都構想がある意味“やる必要あるのか?”という問いに対して、住民投票上は“不要”という意見が、ほんの僅かに“必要”という意見より多かっただけの話であり、当人がやった政策そのものに関して、個別に精査せずに丸ごと批判する人は、“それじゃ、12年前の政策のままの方が良かった?”と問うべきであろう。つまり、維新側の“過去に戻すか、未来に進むか”というキャッチコピーは、既成政党に対しての挑発ではなく、有権者に対して、真剣に“未来”を自分の手で道筋つけるか、それとも“現状維持”で妥協し堕落するかを問うてるのである。逆に、自民党大阪府連や民主党などの既存政党は、ある意味叩き応えが無くなった共産党に変わる“罵倒相手“として見做してるのであり、さらに、そういう事で無視された共産党としては、コレ幸いに議席稼ぎの足掛かりにしたいから、他党との“共戦”を受け入れた訳である。しかし…その状況を一番よく見て、完全に蚊帳の外に出る事を選んだのは公明党であり、故に大阪W選挙に関して、大阪の支持者に“自主投票”という事で、責任を丸投げした訳である。
つまり、今回の選挙によって、一番中立的な立場は公明党であり、その支持者が、どの候補を選んだとしても、公明党所属の大阪府議&市議は全員“針の筵”状態である事は言うまでもない。が、そうでなければ、本当の意味で“公平な判断”を下す事はできない…オイラ流に言えば、“泣いた赤鬼における青鬼の法則”である。まぁ…“泣いた赤鬼”という童話について詳しい話は割愛するが、要するに、自分自身の判断に迷いを生じない様にする為に、敢えて“嫌われ者”を演じ、親友の幸福の為に姿を消した事から転じ、今までの経験上から、自分自身が虐められる事を引き受けた上で、表舞台から、さらには裏でも“何もしない”というスタンスで俯瞰する事を選んだのである。一見すると無責任な態度に見えるが、本当の“無責任”な態度とは、自分が掲げた理念や思考ばかりに囚われ、“何の為の改革か”とか、“何の為の救済か”といった根幹的な本願を忘れ、他者を見下し罵倒する事こそ、支持者や住民に対して批判を受ける元凶となる。以前も書いたが、自分を律する事ができない者が、世界を揺るがす大変革をもたらす事はできない。もっと言えば、“自分の襟を正してモノは言え”である。“襟を正す”とは、つまりは自己中心的な思考を戒め、立ち振る舞いを改め、常に自分ではなく“誰か”の為に“何をする”かを模索し、実践する事である。そういう者を相手に、罵倒したければすればいい…何もできない自分自身が腹立たしいから、そして、自分に刃を向けられないから相手を傷つけるのであれば、それは余計に自分を惨めにさせるだけである。