迷馬の隠れ家 はてな本館

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真の“共産主義”ってなんだ?

先に結論を言えば、異文化や民族性に対する深い理解と共存を求めることであり、過去の事案や現場の地位に捉われずに、全員が対等に付き合える社会を構築することであって、貧富の差や学歴重視などの偏屈した、既存の“共産主義”ってのは、むしろ他人の功績や活躍を僻む者が描く、歪んだ理想でしかない。そう…かつての“共産主義”という名において粋がってる連中の中身を見れば、本物は少数派であって、ほぼ権限を握った者の“正体”は、他人を見下し、自分の地位に固執してバカにしてる連中である。ここ、一番勘違いしてるトコで、提唱者であるマルクスレーニン、活動家のチェ・ゲバラキューバカストロ議長が唱えたる“共産主義”と、他の連中では全然意味が違うし、国家運営のあり方も、そのほとんどが彼らが嫌う権威主義独裁政権主義に陥っている。そこをミスリードして、共産主義を唱えてる時点で本物に非ず。何度も言うが、軍部だろうが役人だろうが農夫だろうが職人だろうが…どんな肩書きや役職であっても、対等に、そして双方で尊厳を支え合ってこそ本物であって、社会全般が自己の責任において運営されていくことが、共産主義の本義であって、意見ガーとか、富裕層ガーとか言って“他人のせい”にして自分以外の意見を排斥したり、出身や家柄を重んじて他者を見下す態度は、本物の共産主義ではない。もし、この意見に対し批判するのであれば、その時点で“思考停止”と同じであり、社会発展の可能性を否定してるのと同意である。
じゃ、なんで“歪んだ共産主義”が社会でまかり通るのか?その本質は、宗教哲学につながる部分であり、また、教科書の中で教える“共産主義”の内容というのが、スターリン毛沢東がやった行為を指してる事が殆どである。ぶっちゃけ、彼等はほぼ、“他人の褌”で功績を得た上で、その“功労者”を排除し、敵対していった訳である。もっと言えば、そう見える様に資本主義に舵を切ってる欧米諸国の教育現場が教えた訳で、もともと、マルクスが唱える“共産主義”の根幹が、ルネッサンス期に起きた宗教改革…ルターやカルバンが唱える“聖書の教えを根本とするキリスト教の回帰”であって、そこには家柄や貧富、学歴や職種などによる差別を一切排して、社会全般をそれぞれの立場、役割をもって支え合う精神こそが鍵となる。ぶっちゃけ、かつての日本が天皇を“生き本尊”として、それぞれの社会的地位や階級を超えた連帯を作ろうという軍部の考え方そのものであり、今の日本でも、そういう部分が引き継がれてるトコである。そう、日本の国家運営こそ、実は究極の“共産主義”の姿であって、そこを“批判”してる時点でお察しである。
役割分担があるからこそ、共産主義は成り立つのであり、また、互いの“違い”を理解し、上手く付き合うことで社会が成り立っていることに気付き、自分が果たすべき使命をもって、社会に貢献することこそが、本来共産主義を唱える者が果たす事であって、他者を阻害したり、権威権力を振るったり、そして国王・指導者を殺害することではない。ついつい“共産革命”というと、既存の国王や為政者を殺害し、国家基盤を丸ごと作り変えることばっか言われがちだが、それは歴史の上で見た場合、配下の民衆に対して“暴君”としてのさばってたからであり、そのツケから殺害されてるだけに過ぎない。ここを誤解して、“共産革命=既存政治の打倒”とミスリードしてはいけない。もちろん、テロ行為、組織内部からのクーデターをいう暴力行為が伴うことが多いが、それらも短期間、あるいは単発的なモノに言及すれば、既存勢力に対して対話の機会を設けるためのきっかけ作りでしかない。ここを勘違いして事をこじらせてるのが件の厨二病集団であり、そこんトコを明確に指摘し、感情に流されずに叱ってやれる人こそが、次世代の指導者、為政者でなければいけない。真の意味での“共産改革”とは、実は自分自身が大人として、社会人として何をするべきか、どう貢献すべきかを問い、実践することを意味するのであって、他人の生活を阻害し、様々な功績を奪い、さも自身を神格化することが“正義”ではない。こういうことを知らずに、共産主義を唱えるなら、それこそ、そういう社会になることを願った釈尊に対して失礼であり、すべての宗教哲学に対して無礼極まりない行為である。