迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

何年経っても進まないのは、心が死んでいるから…震災から5年経過の話。

未だに東北3県の復興が進まないという話を聞くが、そらそうでしょう…被災者自身が自らの意思で“それでも未来に向かって進んでいこう”という意思がない限り、復興なんてありえないし、もっと言えば寂れるだけです。福島県浜通りはともかく、他の地域で遅々として進まない一番の要因は、被災者であることに“甘えてる”ことです。言い方変えれば、いつもの言葉通り、“特別視”されていることが普通になり過ぎて、自分の使命を忘れ、ただ現場で呆然と立ち尽くしてるだけだから、何も進まないのです。21年前の阪神大震災の時でもそうだったが、行政や企業はテキパキと復興とその先の都市計画、さらには再開発を進めてるのに、当の被災者自身が、年齢や金銭面などを言い訳にして、一番やらなアカンかったことに自ら参加せず、単にボーっと見てたから、後で様々な文句を言いまくってるのです。失ったモノが多いから、大切なモノが消えたから…だからどうしたんですか?
はっきり言い切りますが、いつまでも震災で亡くなった人を思う気持ちは大事でも、そこで“立ち止ま”ってはいけない…それは“肉体的”には生存してても、“精神”そのものが“死んでる”のと同じです。亡くなった人の分まで、今ある命をどう使うか…そこを真剣に考え、行動できる人は、心の復興も、そして社会全般の復興も進めることができます。生きることを“頑張る”のではなく、生きてるからこそ“頑張れる”という、常に困難と立ちむかう挑戦、そして、自らが哀しみを乗り越え前進する進撃を続けることが、最善の供養にもなるのです。悲しい、苦しいという“言葉”に酔いしれ、黙ってても支援を受けられるという環境は、結果として精神的な堕落と不安を増幅し、却って自分自身を“ダメ人間”にするだけです。
不慮の事故だろうが、天変地異だろうが関係なく、“死”というモノは、生きてる限り必ずやってくるモノであり、そして誰一人として逃れることのできない宿業です。しかし、言い方を変えれば“使命”がある人には、簡単に死ぬことはありません。そして、なによりも先に亡くなった人は、自分では果たし切れなかった“使命”を、遺された者に託してるハズです。伝統を守ることや、新しいことに挑み続けること…様々なカタチで“共生”してる限り、その魂までもが消えてしまうことはありません。“遺志を継ぐ”とは、その人を“忘れない”という誓いとともに、その魂とともに“前進する”ことを意味します。本気で“不忘”という誓いがあるなら、失った家族や友人の魂は、必ず傍にいる…この確信がある以上、何が起きても“揺るがない心”を維持することができます。
メディアに写ってる人々を見てると、故人に対して未だに縋ってるようにしか見えません。もちろん、気持ちとして分かりますよ。だって、現在進行形でノブさんの“生前さん”供養企画をやってるし、マーティたちのネタもガンガンやってますからねw でも、明確な違いがあるなら、オイラの中にいる彼等に関する“記憶”のみで語るのではなく、オイラ自身の現在進行形の経験や感覚を“彼等ならどうするか”という概念でやってるのです。もっと言えば、冒涜したって良いんです…本気で彼等とともに“生きる”という意思がある限り。


震災で亡くなった者に哀悼の意を、今を生き抜く者に声援を、そして…まともに国を思い行動する者を侮辱し、妨害する者に鉄槌を…