迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

真の富豪とは、お金の“使い方”を間違えない…貧乏人は黙ってろ!!

政府叩きに躍起になってるマスコミは、どうも“本物の富豪”の散財のあり方を知らないらしい…SNS上では、高須クリニックの院長が、自前でヘリを飛ばし、救援物資を輸送することで話題になったが、それ以上に、その物資を一切募金とかの“他人の財布”に頼らず、完全に私財を擲って行ってるからこそ、その行動が評価されるのであり、更なる信頼を勝ち得てる訳である。これを“偽善だ”と叩くのであれば、借金してでも大型トラックに物資を満載して、被災地に入ればいい…行動力に差がないのであれば、できる話だ。
但し、大富豪でもない者が、著名な富豪と同じように支援物資を運んだとて、結局は被災地で邪魔になるだけで意味がないことを言うまでもなく、まして火事場泥棒みたいな行為を疑われるだけである。事実、とある野党は“募金詐欺”をやった訳であり、救援物資をネコババして、被災地と関係ないトコに持って行った…なんて噂もある。ぶっちゃけだが、同じ貧困に喘いでいるなら、正義感剥き出しで政府批判や著名富豪叩きをやるよりも、被災地のことは“できる人”に任せて自分の“仕事”をやったほうが、被災地で余計な疑いをかけられずに済む…もっと言えば、自分自身に災害救助や物資輸送に関するスキルがあるなら手伝ってもいいが、そういうのが一切ないなら、現時点では被災地に入る必要はない。そして、被災地とは無関係な事柄を心配するヒマがあるなら、被災地に関する情報は、自分の意思で遮断するほうが賢明である。
どこの世界の寓話でも、大概“富豪”と呼ばれる立場の人々は“悪の権化”のように取り扱われるが、そこには伏線があった上での話であり、大概の“富豪”は、いろんな意味で人付き合いが悪い…故に最後は“作者の正義感”で倒されるという展開になる訳で、意味なく富豪を叩く展開なんてのは存在しない。だから、物語として成立するのであって、そういった裏設定を無視して、現存する富裕層を叩いても意味がない…それは単なる“貧困ゆえの僻み”だ。ぶっちゃけ論だけど、どんなに恵まれた環境にいても、心が荒んでいたら何の意味もない…まさに“蔵の財身の財より優れたり、身の財より心の財第一なり”という御金言の通りである。(業務連絡、崇峻天皇御書の有名な一節ですよw)
本物の富豪とは、自分を支持してくれる民だけじゃなく、多くの人々を救済するために活動できる者であり、人徳にも恵まれた存在である。故に、基盤となる哲学も、単なる教養ではなく、自身の生き様そのものを示す“羅針盤”として活用できる。宗教哲学の根幹はまさにそれであり、様々な指導者・思想家の言葉から、どうやって“民衆救済”のヒントを得るかで、その行動や言動は変わってくる。幼少期に貧困生活をしてても、自分の意思でそれを打開する努力を惜しまず、勝ち得てきたモノが、有事の時に“何が役立つか?”という問いに対する答えを、正しく導けるのであれば、何の問題もないのであり、逆に土壇場で臆病になるのは、今まで勝ち得た財産や人徳、地位などを失うこと、罵られることを恐れるからである。もっと辛辣な物言いをすれば、成金が嫌われる最大の理由は、成金であるが故に疎まれるのではなく、精神そのものが“貧乏”なままであるからこそである。
中東・ムスリルの王侯貴族が支配する国々で、情勢不安が少ない背景には、支配階級である王族が、配下の民衆に対して、できるだけ自身が持てる資産を散財してるからであり、民衆もまた、その態度に対して文句を言わないのは、それによって経済も回るし、自分の役目も得られるからである。つまり、今現在こそ石油や天然ガスを産出する事で収益を得てるが、それがいつ枯渇するかわからないから、地下資源産出以外での経済基盤を模索してる訳であり、それによって生まれた職業が多彩だからこそ、貧困からの重篤犯罪が発生しにくいのである。逆に、欧米風の“民主主義”や、趣旨が歪んだ“共産主義”を真似た国々は、最高指導者の“貧困思想”が仇となり、それゆえの“民衆暴動”が多発するのであり、その行き着く先が“革命”という名の下で繰り返される殺戮劇である。いかなる思想でも、自身の穿った概念で他人を叩く以上、必ずそれは自身の命にも及ぶことになる。
つい先日、人工知能SNSを自動投稿させる実験をやったところ、なぜかアドルフ=ヒトラーを賞賛するような内容の投稿を繰り返すようになったために、実験そのものが中断した訳だが、いわゆる“民族浄化”を正当化する国や組織がある以上、おそらく同じ失敗を繰り返すだろう。それと同じで、貧富の差ができる背景を知らずに、単純に清貧を尊んだり、租税逃れを叩いたりしてはいけない…国や民族が変われば、生活様式も国是も違って当たり前。それを単一・平均化しようとするから、巡り巡って“民族浄化”という過ちに至る。つまり、白人迎合でも民族蔑視でも、行き着く先はナチスや中国の“人民大革命”、カンボジアの恐怖政治などと同じで、非常に歪んだ“人間軽視”の社会に変貌する。それはやがて、傲慢で愚かな指導者を生み出し、そこに憤懣を抱えた民衆が引き寄せられ、真の意味での“人間主義”という根幹の哲理が潰されることになる。それは亡国の咎であり、利己の“正義”による自滅を意味する。多様性の否定は、選択肢を狭めるだけでなく、民衆救済の道を閉ざすことと同じである。それに…民衆に好かれる富豪とは、叩かれることを覚悟の上で行動を起こす勇者の別称である。だから、どんな批判を受けても笑っていられるし、危害を加えられようとしても怖気ない。万一の際でも、それをカバーする“信頼できる仲間”がいる。そんなことも知らずに叩くなら、自分で“選んだ”貧困として、現状を受け入れるべきであろう。臆病者の成金が、批判を恐れて散財しないから経済が回らないのであり、貧困層が豪遊三昧を批判するから余計に格差ができるだけのこと…根幹的な原理がわかれば、そこんトコを自分自身が改めることで、世界は劇的に変貌する。