迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

インテリほど、他人を見下しバカにする…

Twittreでも散々つぶやいているが、基本、極左思考に至る人ほどインテリ系であることを誇示しようとして、実は結構暴力に走る“おバカ”が多い。その原因は、言うまでもなく“インテリ”である事を特権のように振る舞うことが全てであり、それ以外誇れるモノが、何もないからである。ぶっちゃけ、他人を羨む代わりに、ちょっとした失敗や粗相を理由に叩き、いかにも“自分は正しい”と踏ん反り返る訳である。同じようなことで他人に指摘さえれても、弁が立つモンだから、話をはぐらかされることが多い。しかし…素直じゃないからこそ、本音は指摘された事を認め、謝罪した上で修正すれば良いことでも、そういう事こそが“屈辱”なのである。だから絶対に、人前で頭を下げることはしない…もっと言えば、相手を信用してない上に、自分に対する“恨み”を過剰に気にするトコがあるから、どんなに親しい間柄であろうが、家族の者であろうが関係なく、自分が抱える弱みを誰にも見せたくないのである。いろんな意味で、自意識過剰なのは言うまでもないw
人は誰でも、何らかの弱みと強みがある。運動神経に自信がある人であっても、“風雲たけし城”みたいなアトラクションで失敗すると、結構ヘコむことがあるし、常に落第生扱いされがちな学業成績でも、学校を一歩出た途端に、地域の大人達が頼れる存在だったりすることもある。そういう“関係性”が上手く繋がっていると、社会は順調に動けるんだが、そういう事を嫌った上で“私が世界の中心”という横柄な態度をとると、途端に嫌われ者になる。もちろん、人生において“主人公”は自分自身で良いのだが、それを“世界全般”の主軸として捉えてるようでは、自分自身が悪いのに世間や他人の所為にして逃げるハメになる。社会とは、常に等価交換・因果応報の理の上にあり、どこかで誰かが何らかのカタチで“自分”と接点を持ち、支え合うから成り立つのである。その理を破り、自分の主張以外は認めないのであれば、当然ながら社会からはみ出ることになる。そういう“仕組み”がわからない子供はともかく、いい歳した大人が“自分の思い通りにならない”事を理由に他人を責めるのは、どんなに学歴が素晴らしくとも、どんなに知識に秀でても、バカにされて当然である。なぜなら、相手をバカにしてる時点で、多様性や可能性、さらには未来をも“否定”してるのと同意だからである。
昨今の“後継者不足”ってのも、その“正体”は次世代の人材育成を放棄したことに全てが集約できる。後継者育成には、お金も時間もかかる。欧米企業は事業の失敗に対して、経営執行役員のクビを刎ねるが、日本はとかく、若年層を解雇する…学歴や技能面で優秀でも、“経営悪化”を理由に、簡単に離職を促す。ま、創業者一族が、そのまま企業経営をやってるトコが多いからこそ、どうしてもそういう業界的習慣が日本には根付いてるトコがあり、ゆえに“後継者不足”となる。欧米企業とて、実際は結構そういうトコがメジャーだったりするのだが、一番の違いは“組織を守るため”の意識が、企業の執行役に根付いてるトコが多いことにある。以前にも解説したが、中東のムスリム系王族は、イスラム教の思想に従い、自分が治める国の民に、その巨万の富を分け与えることが是となっている。コレに近い格好が、タイのプミポン国王の振る舞いであり、世界一の大富豪と称されていても、その資産(主に不動産)は全て“タイの国民のためにある”として、原則、タイ国内在住民に対して解放している。当然、その思想は国王一族の是であり、ゆえに王族の者といえど、国民を裏切るような態度をとれば、軍隊も警察も容赦ない。それは常に“主従は対等”という持論があるからこそである。
それを嫌い、家族をも“抹殺対象”に含めてるのが、極左思考に陥ったインテリであり、学者の多くは時として、政治家をも見下す事がある。ヲタクの思考回路と同じで、自分の“知”こそが絶対条件であり、そこを批判したり、間違いを糾そうモノならば、身分や年齢なんて関係なく、トコトン相手をバカにするのである。言っちゃ何だが、政治家ってのは“民の代表”として国の行く末を案じながら様々な政策を論じ、時には隣国・相手組織との交渉を行ってる立場であり、“現場”で戦ってる存在である。だが、学者ってのは悲しいことに、そういう“守られている”意識が乏しい上に、知性のみで優越感に浸る愚者が多い。言っちゃ何だが、学者よりも優れた知識や技能を持ってる人は、世の中にはごまんといる。まして、最高学位である大学でも、更にトップクラスのトコで学んでいたのに、社会に出たら中卒技術者以下しか技能がないバカなんてザラである。もっと言えば、かつて学生運動に躍起になってた連中にとっちゃ、自分以上の才覚ある者の存在って、目障りでしかない…だから、若年層を叩き、できるだけ自分の“思い通り”にしか動けないヤツを褒め称え、“才能ある落ちこぼれ”を学校から、そして社会から追い出そうとしてる訳である。
でも、ちょっと考えればわかるのだが、自分の思い通りにならないことに腹を立てるのは、要はニートと同じで“他人が悪い”である。むしろ、ニートは“自分がいない方が事がスムーズにいく”という事に気づいて、社会に関わることを避ける内に、インターネットのできる部屋以外は居たくないというトコで止まってるから、実害は少ない。が、学生運動をやってるような連中は、それを無理やり“他人の領域”に土足で上がり込んで旗を立てようとするからタチが悪いし、実害もデカい。
優越感に浸りたい人ほど、実はそれ故に他人から見たら悲壮感が異様なまでに漂っている。目の前の目標ばかりに捉われ、他人からの評価に頼るあまり、自分の価値観を低く見過ぎて、本当にやりたかったこと、叶えたかった夢までも“誰かに褒められたい”一心で捨てるから、ごく一部の“成功者”に対して、全然関係ない恨みを抱いてしまうのである。これが、せっかく最高学位まで行ったのに、学生運動に青春をかけ、穿った共産主義を“正義”と言い続ける者の“正体”である。要は、自分と他人は“別物”であることが自覚できず、“報われない奉仕”をして人生を棒に振った者の末路だ。対価を必要とする奉仕は、どんなに貧困生活を続けていても、必ずどこかで報われるが、対価を生じない奉仕は、どんなに精を出したトコで意味がない。育児はあくまで“次世代”を生きる者を、必要最低限度の知識と教養を与え、社会そのものを構築し続けるモノであって、そこに“見返り”を求めること自体が間違いである。どんなに世話を焼いても、その“見返り”を欲してる以上は報われない。むしろ、期待しない方がいい…他人の価値観に合わせる必要がない以上は、自分の価値観を他人に合わせる必要もないし、押し付けたトコで迷惑なだけである。それがキチンと理解できる相手であるなら、喧嘩してもすぐに和解できる。そうじゃない人ほど、誰一人気づかない…いつの間にか一人ぼっちになっていることと、信頼できた人々が、いつの間にか離れて消えていることに。
縁(えにし)というのはおかしなモノで、たった一度だけの付き合いでも大事にされる人もいれば、長年連れ添ってきた夫婦でも疎遠な状態になることもある。自分の価値観とのズレが許せない人ほど、他人を批判し、見下そうとする。そういう人ほど、実はとんでも無くガキなんですよねぇ…思い通りにならないからこそ、様々な多様性と可能性が同居し、要所要所で支え合い絡み合ってるからこそ“社会”ってのは“平和”なままでいられるのです。