迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

社会を支えるのに、学歴なんて関係ない!!

昨日バングラデシュダッカで起きた、反社会武装勢力による外国人襲撃事件。残念ながら、日本人も7人犠牲になり、悔やまれる結果となった訳だが、この件に関して一部野党がまたアホなことを言ってるんだが、正直な話、憲法9条がある以上、自衛隊が在外邦人の救助に向かいたくっても“できない”ってのを知らんのかと小一時間…まして、政府要人は事件を受けて参院選の街頭演説を中断し、情報収集と解析を急いでたにも関わらず、そこを批判してる時点で、「アホかお前ら」と一蹴せざる得ない。先週も自衛隊や防衛費を“人殺し”と罵っただけあって、この事件の犠牲者を助けられんかった事を理由に政府を批判するなら、一報が入った時点で「自分らで救助に行きな」としか言えないし、それで二次被害に遭ったとしたら、どんだけ国民に迷惑をかける気だ?
一部報道では、実行犯は富裕層で高学歴の20代およそ20名とのことだが、ここで“ヘンな違和感”を覚えないだろうか?同じ様なテロ行為をやらかすのは、いつの時代でも“高学歴・富裕層”である。通常なら、そこは“苦学生貧困層”がやってるイメージがあるが、実はそういう人たちはテロ行為をやるにしても、資金や活動に使える時間がない。もっと言えば、中卒や高卒の方が、さらに中学の時からいわゆるヤンキーだった子の方が、実は愚直で真面目な人間になることが多い。なぜなら、ヤンキーになる“理由”そのものが“早く一人前の存在になりたい”という成長欲求そのものであって、思春期において、自分よりも年上な相手の態度に理不尽さを覚えるからこそグレるのであり、そこから社会そのものの構図や、現実の中での理不尽さに対する戦い方、受け流し方を、実践で覚えていくからである。だから、学歴でコンプレックスがあっても、いち早く社会に…“大人の世界”に飛び込んで、その荒波に揉まれてる分、冷静に、かつ、堅実に物事を判断し、乗り越えるだけの経験がある。しかし、一般的な“いい学校へ進学し、いい企業に入社する”事を念頭に置いた学習しかやってない人間にとって、大学卒業後のビジョンが、たとえ国立の難関校だったとしても、自分が望む高収益が得られ、仕事がラクな企業に採用されると限らないし、入社したら“業務内容がブラックでした”なんてのは日常茶飯事である。さらに、公務員や弁護士など、一見すると高給取りな職種に就けても、仕事依頼がなかったら収入はない訳であり、そういったことから社会に対する憤懣を覚えるバカが多い訳である。つまり、所謂左派インテリに多いのが、こういう“社会に理不尽さ”に対する抵抗がないまま社会人になってることであり、それゆえに、今までに学校で学んだ成績“だけ”で社会が図れるという勘違いから、テロ行為に発展する訳である。要は、学生運動やってる連中にとっちゃ、低学歴で落ちこぼれな連中が、社会においての貢献度が高けりゃ高いほど屈辱を感じ、それゆえに暴力を振るう訳である。
もちろん、大卒だからといって“世間知らず”な人ばっかではないのは言うまでもないが、大人になるまでに、どれだけの理不尽さと正面から立ち向かい、経験を積み重ねたかによって、人生の方向性なんてのは決まると言っていい。逆に、親や周囲が望む結果と、自分がやりたいこと、成し得たいことが違ってたって、自分自身の人生に悔いがないなら、何をやったとしても自由であり、そこには自分自身に対する責任と誇りが同居してる訳で、そこんトコを他人が詰る筋合いはない。もっと言えば、“ウチはウチ、ヨソはヨソ”である。そこんトコの感覚が、富裕層で、自分の思い通りになることが是となってしまってるガキにはわからない部分であり、それがそのまま成人になればどうなるかは、御察しの通りである。つまり、低学歴でも、貧困層でも、人付き合いが上手く、処世術に長けた、世間的に“不良少年”と言われたガキが羨ましいのである。そういうことをやりたくても、親や周囲の大人に用意された道の方がラクだから…さらには、所属する組織がいつでも庇ってくれるモンだから、世間の理不尽さを目の当たりにすると、その“穿った正義感”が牙を剥くのである。
本来であれば、その理不尽さに対して、周囲がキチンと教えるべきであり、また、“守られる側”のままではダメなんだということを学ぶ機会を与えないといけないのであり、そのための経験として、体験授業や社会見学というのはある。自分の知らない世界を知ること、体験することによって得られる知識や経験は、自分が“守る側”になった際に役に立つのであり、ひいては、自分の家族、友人、故郷、祖国を守るための犠牲に対し、自らの意思で引き受ける覚悟を、常に意識して行動することを意味する。つまり、それが大人(民衆)としての“責任”であり“義務”である。その先に、様々な“自由”と“権利”が存在するのであって、それに対して臆病な人ほど、その理不尽さに耐えきれず、勝手に脱落するのである。学生であっても、その理不尽さから自分が叶えたい目標を見失い、世間に流されて“生ける屍”状態になる者もいるが、確固たる信念と、そのギャップに対して受け流せるスキルがあるなら、人としての道を踏み外し、違えることはない。オイラからすれば、学生運動や市民団体という名の隠れ蓑を使って、あるいは、宗教理念を盾にして、テロ行為や要人襲撃をやる愚者は、歳喰っただけの“ガキ”でしかない。どんな肩書きや身分であっても、さらに、どんなに最高学府で主席を務めた実績があっても、作家として売れっ子であっても、レコードや音楽配信で巨万の富を得たアーティストであっても、やってること自体が世間に対し、自分の主張以外認めないとして牙剥いて阻害するのであれば、主師親の三徳をもって徹底抗戦するまでである。民主主義国家において、“国民”は国の“主人”であり、共に生きる上での“師匠”であり、“国”という名の家族を守るための“親”である以上は、乳臭いガキの所業を“叱る”のは、当然の義務であり権限である。そのための選挙制度であり、そのルールに従う以上は、何人たりとも選挙結果に対しての“責任”を持つべきであり、地域人口による“一票の格差”でギャーギャー騒ぐ連中に対して、だったら僻地に移り住んで、そこで一票を投じろやと言ってやるのがスジである。都会が便利だからこそ、賃金が高くて職業選択の自由があるからこそ、そこに住むのであれば、その格差故の理不尽さは、甘んじて受け入れるべきであって、それができないのであれば、今現在、公的機関から受けている様々な優遇を辞退すべきである…その優遇措置を、サービスを受けられるのは、それに似合うだけの税負担があってこそであり、それに似合うだけの“犠牲”を、どこかで誰から請け負ってるからである。その有り難みを理解できない以上、どんなに歳を喰ってもガキはガキのままなのである。

今回のテロ事件で犠牲になった人々に哀悼の意を、ドアホで世間知らずな連中に鉄槌を…南無。