迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

排斥主義の行き着く先…

先に結論を言えば、人間不信からの自決です…これ、要は自分の思い通りにならない“理由”を外にばかり求め、自分自身の寸志を改めようと思わないから拗れるのであり、その理不尽さから耐えきれず、馴れ合う事も、分かち合う事すら拒絶した結果、自分自身から消える事を選ぶのです。もっと言えば、純粋無垢に他人を信じてた事によって、勝手に相手が裏切ったと勘違いするトコから始まる、人間不信の行き着く先です。
もちろん、その一番の原因を作り出しているのは、一見すれば当事者自身だが、第三者が勝手にしゃしゃり出て誇張する筋合いは、まったくない訳であり、同じ被害を受けたとしても、犯人まで同じとは限りません。(だって、当該事件の被疑者が逮捕、あるいは自決した場合、同一犯がやるには充分過ぎるアリバイができますからw)むしろ、同一犯であるなら、当該事件で逮捕された被疑者は、とんでもない濡れ衣を、警察にかけられた挙句、真犯人に利用された訳ですから、怒り心頭になるのは当然の話。それこそ、更なる犯罪を犯しかねない心理状況になりうる訳です。
単純に、民族性や宗派の違いのみで相手をバカにするのは簡単だが、それ故の報いは、必ずどこかで、しかも、自分“以外”の同類他者が受けるハメになる。自分自身が被る分には諦めも付くし、当然の報いである以上は覚悟もできている。が、そうじゃない人が巻き込まれた場合、その責任や報復は誰のモノなのか?もしも自分自身の存在が、多大な迷惑を掛けたと認識してるなら、どうやればその信頼を回復できるか?悪事は誰でもやることであり、誠意は誰も見向きもしない。もっと言えば、極悪非道な態度ほど目立つモノがないから、世間的に地道な慈善活動は、ついつい感謝されることなく徒労に終わるのが普通である。コレが、普段は不良少年とか鼻摘まみな存在がやってる場合、通常の人が見たらどう思うか?彼らは、単に地域住民から信頼を勝ち得るためにやってるのではなく、一般人よりも“汚れ役”を買って出ることができるのが自分らだってことをわかってるからこそ出来るのであって、褒められてくてやってるのではない。むしろ、嫌われ者として他人を遠ざけることで、一般人が気付きにくい“極悪非道な世界”との結びつきを、できるだけ見せないようにしてるだけである。もし、彼らの代わりにそういうドロドロしたトコに立ち向かおうというなら、絶対に綺麗事だけで済まされない“真実”と向き合わなければならなくなる。
例えば、募金活動。災害復興や救援活動、様々な慈善行為に対して行われてるように見えるが、その実態は、ほぼ胡散臭い市民団体の“活動資金”に回ってる可能性が高いと考えていい。メジャーな支援団体(赤十字や赤い羽根など)でも、募金の一部…つうか、その殆どは、献血や被災地での救援活動にかかる人件費に消える訳で、仮に、それを本当に“無償でやれ”といえば、おそらく誰も救援には行けないだろうし、物資を買い付けるにしろ、それを輸送するにしろ、その経費まで“義援金として被災者にやれや”と文句を言うなら、流通機能が止まったトコに現金を配ったとしても、腹の足しにもならない。むしろ、本当の意味での“救済”とは、時と場合によるモノであって、支援物資や機材なんてのは、実は人件費よりも安い。そういった裏事情を知っていると、そのシステムを悪用しようと考える輩が出てくる訳で、そういう連中が募金箱を持って“支援お願いします”なんて言ってる時点で怪しむべきである。そういう“理由”で募金を断ってる人がいるなら、それはそれで“正解”である。募金や物資支援以外の方法で救済する術を持ってるなら、それをやればいいだけの話。特に、東北の太平洋側と熊本・大分の被災地に対して有効な支援策は、現段階では積極的に、物見遊山で現地を見ることであり、そこの経済を活性化させることである。それができないなら、物産展に出向くか、ふるさと納税で、とにかく現地の経済を動かすことである。それすらできないなら、心は痛むが一切無視すること…一番非人道的に見えて、実はこれが被災者も自分も傷付かずに済む方法である。特に福島県の問題に関しては、原発事故の一番の原因を作った当事者自身が“東電ガー”とか“誘致した自民党ガー”とか言ってる時点でお察しである以上、現状を知るために観光することと、福島県産の農作物や工業生産品をガンガン使うことが、本当の意味での“復興支援活動”になる。それに、放射線の過剰被曝する可能性があるからといって、速攻で死ぬとは限らない。(誤解してる最大の原因は、広島と長崎の原爆被害とごちゃ混ぜしてるせいであって、核で一番恐ろしいのは、その熱量が兵器として使った場合、大都市郡を壊滅できるほどの威力があることが判明したからこそ。放射性物質の殆どは、自然界において臨界に達することがない以上、そんなに強い放射線を出してる訳ではない。むしろ、太陽光のほうが厄介w)正直な話、福島はあと10年すれば、浜通りの一部(福島第一原発半径5km圏内)を除けば、ほぼ復旧すると思いますよ。福島県民が本気で復興に挑み続けるなら、確実にね。
原発の問題においてもう一つ、司法が高浜原発を、ほんの一部の身勝手な市民に味方して運転を差し止めたことで、さらに“危険な状態”になっていることを知らない人の方が多い。どんな建築物や施設でも、永続的に使ってる以上はメンテナンスもバッチリだし、故障箇所もすぐ見つかるからこそ、すぐさまの交換もできる。が、長期にわたって運転を止めるということは、そのメンテナンスも部品交換が必要な箇所を見つけることもできないまま放置するのと同じであり、それゆえに事故が起きた場合、それは誰の責任か?正直に言えば、関電が動かしたのだから“悪い”とは言い切れない…むしろ、そういうことすら知らずに、単純にマスメディアの言葉に惑わされ、ギャーギャー騒いだ一部“市民”自身にもその責任は降りかかる。そう、関電側の“安全対策”を阻害したがために事故ったら、それこそ関電“だけ”の責任とは言えなくなるからだ。
遠回しに言ったが、要するに、自分にとって都合の悪い存在を、一切合切で排斥すれば、一過的には安心するだろうが、やがてその“報い”は何らかのカタチで噴出するってこと。これ、仏法においても同じことで、法華経の行者は災難に遭うのは、過去世において同じ法華経の行者を愚弄した因果がそこにあるためと説かれていて、それを避けるか、敢えて受け入れるかでその“結果”は変わると言われている。つまり、排斥主義者は単なる臆病者であり、また、自分の安穏のみを願うあまりに、他者に対する感謝や誓願を忘れ、傍若無人な振る舞いを起こしかねない…その結果、どういうことになったかは、嫌という程歴史が物語っている。それこそ、中国や韓国のいうトコの“正しい歴史認識”ってのを、皮肉にも言い当ててる言葉であり、この言葉自身、実は日本に対して言い放ち続けてる自国民にこそ言わなければならない部分であり、また、それ故の歴史観の“歪み”ってのは、当事者同士の歴史的証拠(書物や建造物など)をもって、互いに検証し合わないと、余計に“謎の世紀”っていう黒歴史を生み出す原因となる。日本人が歴史に強い一番の“理由”とは、そういった記録を、何としてでも後世に残して置きたいという願いが古代よりあったからこそであり、それに対して無頓着な人々によって事ある毎に破壊されても、それを修復して利用し続ける文化があったからこそである。ぶっちゃけると、建造物に関して言えば、震災が多い土地柄ゆえに、できるだけ軽量、かつ、再建可能なことを条件に木造家屋が多いため、火災に弱い代わりに土台さえあれば元の位置に立て直すことができた訳であり、都市部では、火災による被害拡大を防ぐために瓦屋根が一般化した訳である。そして、この考え方は、元々飛鳥時代〜平安中期までの都市計画と合致してて、目的こそ違えど、そもそもの計画上では、より安全に、より確実に民衆の生活基盤を守り、繁栄させる観点において非常に重要な部分だった訳である。そこを勘違いした人々は、更にコンパクトな方が使い勝手がいい(要は税金取られたくないw)ということで、区割りを細分化し、大通りと裏道が作られた訳である。先日、京都の繁華街である先斗町で火災があった際、被害規模こそたいしたことなくても、その道路幅の狭さから消防車が入らず、鎮火までに4時間以上かかった。平安時代のままなら、ある意味余裕の区画だったのを、室町以降に細分化し、それを“景観保全”の名の下で見直さなかったツケと言える話である。つまり、時としてそういう判断が裏目に出ても、それを受け入れられるなら何しても構わない代わりに、他人の所為にしてはいけない…その理を破ってるのが排斥主義の概念であり、ゆえに“失敗は他人、成功は自分”という身勝手な概念で人々を愚弄するのである。そして、そういう考え方に至りやすいのが、苦労知らずな富裕層のインテリである。ま、“本物”じゃないからこそ、自分の殻に閉じ籠った上に、他人をバカにする訳であり、そして最も他人からバカにされることを嫌う愚か者だからそうなる訳で…