迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

何人たりとも、他人を罵る資格なし!!

今回は短め…たった一言ですわw 生物の生存闘争という“戦の哲理”を破るには、自ら身を引くか、他人に喰われる事を容認するしかない。つまり、蹂躙されても“反撃しない”事を明確にすること…だが、これも一つの“戦略”にして、結局は“戦の哲理”というのを逸脱できたとは言えない…そう、これも一つの“戦い方”であり、もし、これすら否定するのであれば、それに似合う“代償”を、どこかで、なんらかの方法で提示しなきゃならない。その“模範解答”を見出せやしないのにも拘らず、人は必ず、他人を罵る。その“罵しる相手”が、いかなる存在や地位、権限や法的規制があったとしても…である。雇用者が就労者を罵るのも、利用客が施設運営者を罵るのも、結局は“自分の非”を認めたくないから、“自分の是”だけをゴリ推しして事を片付けたいから、そうなる。ならば、一切の文句、誹謗中傷、罵詈雑言を排して、自らはそれを言わずに、さらに他人にも言わせないように仕向けたらどうなるか?結論は簡単だ…存在意義を見失って自決するだけだ。
だから人は、常に“自分の居場所”を求め、それを奪い合い、淘汰して、その孤独に耐えながら生きてる。誰一人、何も信じられないのであれば、なおさらの話だ。だから宗教に縋る…心の“明確な拠り所”としての哲学と、それを探し続けるための“信じられるモノ”がそこにあるから、そう信じたいから様々な人が集う。だが、それゆえの危うさと、意見の相違を認め合えないが故の拗れが因で、結局争い事が絶えなくなる。それは、いかなる宗教、民族であっても避けられないし、それを単一化しようとすれば、確実に“異端者”の排斥が行われる…その“異端者”によって支えられていた事実をも無視してだ。その結果、どんな国家も、組織も、連体感を失った挙句滅亡する…排斥する以上は、それに似合う“代償”を、自らが引き受けなければならない。宣教師・僧侶を排斥したなら、その宗教を広布させるのは在家信徒だけになる。自衛隊や警察などの公的機関の救援を一切断るのであれば、どんな有事に対しても、住民自らが率先して救助・支援を行わなければならない。どこかで誰かが、なんらかのカタチで“犠牲”になってる以上、その“犠牲”の上に自分の生活が成り立っている事を意識しなければならない。だから、一切、人をバカにしてはいけない…バカにしたなら、自らの身をバラバラにするぐらいの犠牲を払え。それが、他人をバカにした“対価”であり、それに似合う“報酬”として、様々な事柄が起きるのである。それが幸不幸になるかは自分次第である。その価値は絶対にして、覆ることはない。拒否しても、受け入れざるえないモノであり、それが嫌なら率先して自らが“汚れ役”を引き受けろ。それができない以上、結果を覆すことは不可能だ。