迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

卵の殻は、自分で剥かないと出られない…

いわゆる“リベラル”を称する人ほど、どういう訳か宗教哲学の真髄を理解できてる人がいないw 特に戒律ってヤツの“本意”ってのを理解するのが難しくて、そこを無視して騒ぐから、どんな宗派の教えも捻じ曲がる訳である。イスラム教の根幹の教えだって、そもそもは家族を、地域を守るためのモノであって、他宗派の批判ってのは、経典であるコーランには、(その原本の部分には)一切書いてないハズである。つまり、シーア派スンニ派に分裂した背景に、“正当なる後継”を定めてなかったことが今日の“対立”の原因とも言われているが、おそらく、創立者であるムハンマドは、中東諸国の人々に対して、後継の“指導者”となるのは既存の階級ではなく、信徒全員、一人一人に与えられたモノとして位置付けてたと考えたなら、その思想や理念を破ってるのは、皮肉にも敬虔な信徒自身だとも言える訳である。同じ理屈はキリスト教も然り。
仏法には弘教のために必要な心構えとして、“随方毘尼(ずいほうびに:戒律にないモノに関しては、地域の慣習やマナーに従う方がいい)”という考え方があり、創価学会もその法理に従い、他宗派に対して“折伏弘教”を理由に自分勝手な解釈での批判は行わない事になっている。佐渡御書の“摂受折伏時による”という御金言通り、変なイメージや誤解を解くために丁寧な説明を行うことと、謂われなき侮蔑や不正に対して叱責することは、相手の態度や世間的なマナーなどを鑑みて行うべきと指導している。だから、日顕宗に対しては攻撃的になることがあっても、他宗派…特に海外の宗教的指導に限界を感じてる人々に対して、決して侮蔑や頭ごなしの批判はしない。もっと言えば、他宗派だからこそわかる部分もあるし、そうじゃない誤解をどう説明して納得させるかって部分に、御書の教えを用いる訳であり、御書の中で念仏に関する批判とて、それは権威で信徒を脅す態度を取る僧侶が、鎌倉時代に蔓延してた事に対する批判であり、日蓮自身も元々は念仏を唱えてた時代があった。(てか、日蓮法華経根本の仏道修行に邁進するきっかけは、修行僧時代に比叡山延暦寺に訪れ、そこで法華経を学んだことから始まる訳であり、それ以前は念仏を基本とする仏道修行をやっていた。)だから、本来の日蓮法華系宗派の宗教団体は、“万民に開かれた仏教のあり方”を基本とする考えで派生してる訳であって、カルトなイメージの“諸悪の根源”は他宗派から見た外見上の異様さ(日蓮系宗門は、他の宗派と違って法衣が薄墨色なのが特徴で、“着物に墨や染料で染める費用すらない貧困層”という意識づけで、そういう伝統がある。)や、信徒の参詣がかなりロックな出立ちだったことから、小説や時代劇での“演出”において、一般的な浄土宗や曹洞宗などの僧尼と判別するために“悪役”として描かれてきた歴史があり、それがそのまま定着してしまったことから誤解や曲解を招いていた部分がある。そこんトコを一つ一つ解説していくと、同じような誤解や偏見は、諸外国の宗教概念にも存在していて、それゆえの排斥を求める“原理主義”的な概念から“大暴走”する訳である。
どんな宗派にも、いわゆる“原理主義”って概念はあるが、暴力に走る輩の殆どが、実は表面上の意味しか理解できてない“頭デッカチ”であり、宗教の本質は、どの宗派であっても民衆救済が根本であり、そのための戒律であり、それを実践して相手に見せることで、社会上の役割分担と繁栄の享受を説いていくのが信徒の“使命”であり“修行”の一環なのである。そこんトコを無視して、勝手論で民衆を傷付けてる輩が、“原理主義”を唱えている時点でちゃんちゃらおかしいのであり、また、社会共産主義自身も、本来は根幹となる宗教的理念があってこそ初めて成り立つモノである。それを否定して“宗教の根絶”を訴えたのがソビエト系(つうか、スターリン主導の)共産主義の指導者達であり、更にそれがあらぬ方へと歪んだのが、北朝鮮や中国の現政権と言っていい…北朝鮮が欲しいのは、日本や諸外国の様な王室・皇族が存在し、それらが権限を持つ“絶対君主”の国家体制であり、中国に至ってはスターリン提唱の概念(スターリン政権下において、ソ連を築いたレーニンを神格化し、今でもサンクトペテルブルグにある安置場に、防腐処理を定期的に行ったレーニンの亡骸が保存・展示されている。)を模して毛沢東を“最高指導者”として祀っている。そこんトコを踏まえると、どんな組織も権威による支配に堕ちた時点で腐敗してる訳であり、その支配下において教育を受けた子供達が、その“腐敗した概念”で他者を批判することを“正義”としてるから厄介なのであり、そこを是正するには、自分自身で様々な経験を積み、他所から見て“おかしい”と思う事に対し、ありのまま“おかしい”と言える、そしてどんな侮蔑にも耐えられる精神の“根幹”を鍛え上げなければならない。そのための“基本的理念”を学ぶ場が宗教であり、それに伴う礼節や哲学でなければいけない。そこをすっ飛ばした上で“正義”を叫んで暴れる者は、もはや“悪”以外の何者でもない。女性の社会進出を批判するのであれば、それを提唱する男性は、分相応の責任を負わなければ釣り合わないし、身障者を侮蔑するのであれば、その分の“社会的負担”を言い出しっぺ自らが請け負わなければならない。子供や若年層の研究者をコケにしたのであれば、その報いは必ず何らかのカタチで降りかかることを覚悟すべきであり、そう言った“因果応報の理”に関わりたくないのであれば、“自分の世界”に閉じ篭ってたらいい…卵生生物において、孵化の際に自力でその殻を破らなければ、“外の世界”に出ることはできない。どんなに殻の中でピーピー鳴いても、誰も助けてくれない。“外の世界”に出れば、強敵に喰われる危険はあれど、“殻の中”と違って世界が広いから、どこまでも自由に、自分の意思で動くことができる。“殻の中”の世界はいずれ息苦しい、狭い境涯で四苦八苦する事になる。居心地がいいのはわかるけど、“外の世界”で恥をかきたくない、傷付きたくないと我侭いう者は、その“殻の中”で朽ちるだけだ…