迷馬の隠れ家 はてな本館

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“市民団体”の暴走が止まらない…歪んだ正義とは(1)

先に結論を言えば、“歪んだ正義”の正体ってのは、単純に“集団的無知”の暴走であり、どさくさ紛れで他人を殴りたい衝動を抑えずに暴徒と化する訳である。つまり、“いい子”でいたことに対する反動が、ちょっとしたきっかけでハメを外したた結果、どうにもならないほどの破壊力となって具現化するのである。あ、“集団的無知”ってのは、集団心理の一つとして起きる対象者からの批判を恐れた結果、誰も言い出せずにズルズルになった状態であり、一人の“問題児”が“正しいことを正しいと言わない事はおかしい”と訴えた途端に、雪崩打って批判する側に立とうとする、保身の姿勢である。実んトコ言えば、学校などの“集団いじめ”もそこんトコが作用してる事であり、“勇気を出して止める”ことは、“自分も批判の標的になる”ことを意味するから、誰も“助けない”のである。だが、それが後に“どういう結果”に繋がるかは、そういう悲惨な経験を乗り越えた人間なら、誰しもが知ってる事である。
今、韓国の大邱の歓楽街に、慰安婦像を作ろうとする市民団体が、住民相手に大暴れしてるらしい。ご存知の通り、“慰安婦像”の本来の目的は、日本政府を“戦争責任”の名の下で強請るための意図があり、像のモデルになってる“少女”は、実は戦争とは全く関係ない、飲酒運転のクルマに“殺された”女子高生である。もちろん、戦時下において…否、日韓併合において発生した“人種差別”(嫌韓ファシズム)は批判される行為だった事はともかく、それを“正当化”してる時点でお察しである。悪いが、日韓併合に関して言えば、中国(時代的には清朝)やロシア帝国からの侵攻を抑えるための防衛に関して、今の日本が“憲法9条”を理由に米軍に防衛を依頼したのと同じ理屈からやったモノであって、当時の明治政府ですら、実際は併合に反対する人の方が多かったとも言われている。じゃ、なんで併合できたかと言えば、反対派を黙らせるためにアレコレとやったからであり、また、賛成派の殆どが、責任の所在を天皇丸投げにできる憲法の闇を利用して傍若無人をやったからである。だから、日本国憲法では皇室の政治介入を(事実上)禁じた訳であり、ゆえに“民主的な方法”での国家運営を是とした訳である。
しかし、そこんトコを“悪用”してる“市民団体”が多い訳で、特に共産系自体、本来は日本国憲法の作成と公布に対して猛反発したクチであり、公布後は“憲法9条をいじるな”と声高に叫んで、自衛隊を批判してる訳である。ここに、集団的無知の根幹がある…自分の主張さえ通るのであればなんでもありなのであって、そこに“正義”は存在しない。そう、自分自身こそが“特権階級”であり、それ以外はどうでもいいのである。だが、本気でそう思うのであれば、自らが犠牲になることを受け入れなければいけない。しかし、集団的無知の前では、どんなに正しい“ツッコミ”をやったとしても、全て“否定”されるのである…なぜなら、ツッコまれている“理由”そのものが理解できてないのと、自分の主張のために、矛盾した理論を無理矢理正当化してるモンだから、話にならないのである。
何度も言うが、多くの市民団体…特に共産系の団体は、自分達が掲げる“共産思想”が実現するのであれば、国や世界がどうなってもいい訳であり、そのために共産革命の名の下に既存の為政者の“処刑”は“当然の権利”としてるトコがある。つまり、自分以外の特権階級を排斥してこそ、初めて共産革命は成立するという、とても“歪んだ正義”が根底にあり、それゆえに、自分に賛同する者は全て、自分の意のままに動く“捨て駒”として見做すトコがある。ゆえに世間知らずな大学生を、言葉巧みに“同志”にするのも、世間の欺瞞に苛立ってる中高年の賛同を集めて運動資金を巻き上げるのも“お手のモノ”であると同時に、自分達の大義に不信感を抱いた“同胞”に対してブラックな対応をするのも、表向きこそ“組織の結束のため”としてるが、本質は単に嘘がバレることを恐れての“保身”でしかない。だから平気で“作戦”が不調に終われば、その“落とし前”として現場の指揮官ごと組織を壊滅させるのであり、それゆえの内ゲバが絶えないのである。同じ理屈は、宗教団体でもよくある話だが、根本的に違うのは、基礎となる宗教哲学の解釈の違いによる意見の対立なのか、宗教そのものを否定した上での意見の対立かである。異教徒であっても、きちんと根本となる宗教哲学が理解できてるのであれば、意見を合わすことができるが、“歪んだ正義”に走りがちな共産主義者ほど、礼節を弁えずに批判に走る…宗教の多くは“人を敬う”ことを根本とする教えであり、そのために守るべき“戒律”を設けて心身を鍛えることを是としてる訳であり、その“戒律”の中には、どんな相手に対しても平等に、しかも“対等”に敬う姿勢が大事とする訓えがある。しかし…キリスト教の哲学が根本となっているハズの共産主義者ほど、ここんトコの部分を勘違いしてる訳であり、イスラム教に至っては、(特に原理主義を謳ってる人ほど)対等な人付き合いを嫌う習性がある。(もちろん、そういうトコは仏教や神道も他人の事を言えた義理じゃないw)
つまり、自分自身こそが“特権階級の存在”にしたいから、そして“そうだ”と言いたいばかりに、さらに自分以外の人間を“見下したい”あまりに傍若無人を働くのである。その相手が既存の特権階級…つまり、日本だと皇室にあたる訳であり、海外だと王室や貴族となる訳である。で、それを討伐できた上で、その“指導者”となる人が玉座に座れば、次の“標的”として叩く訳である…この繰り返しをやってるのが、皮肉にも韓国の“民主主義”であり、そこを否定して事実上の“ロイヤルファミリー”の存在を許してるのが北朝鮮の“共産主義”である。こういう風に解説すると、なぜ“集団的無知”がいけないのか、よくわかるかと思う。さて、どれだけの人がオイラに対して、矛盾した批判を飛ばしてくるやらw