迷馬の隠れ家 はてな本館

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実は“褒める”ことこそが一番“難しい”話…

一部のSNSで、中国のとある男性が30年以上も自分の収入をほぼ全額つぎ込んで、貧困層の子供達に学校へ通わせている話が出回ってるが、ここでのポイントは、その男性が“貧困層”であることと、そんな自分が周囲の“大人”から支援を受けて学校へ通っていた経験があったからこそできたという点である。ま、“恩送り”という概念で言えば美徳な話だが、これを金銭的な事で言えば、本来であれば富裕層の“仕事”であり、その奉仕に対する報恩感謝で支えることが、施しを受けた者が示すべき態度である。また、本来であればそれは、双方の信頼があってこその話であり、それがなかったら、貧困男性が自分の生活を顧みずに子供に施しを継続することは不可能だ。

もっと言えば、こういった慈善活動ってヤツは、やるべき人がやってる時点では、それが“当たり前”過ぎて、誰も賞賛しようとは思わないからであり、今まで悪行三昧な不良少年や反社会組織に在籍してた者が社会奉仕に奔走することを珍しいと思うから、ついつい褒めようとする訳だが、それって普段から正直にやってる連中に対して失礼じゃないか?ココんトコが重要であり、そして、そこを無視して賞賛すれば、“できる人”にとっちゃ“なんのために俺やってんだ?”って話になる。つまり、差別の根源と一緒で、本当に“褒めるべき人”ってのは、実は何気ないトコでさりげなく、しかも普段の所作で次世代を育成できる人であり、そのために資金を使える人であり、そしてそれを支える環境にいる人達全員を指すのであって、特定の人を“特別扱い”することこそ、一番の“間違い”なのである。だから、不軽菩薩は“全ての人に仏性がある”と信じ、どんなにキモ悪がられて殴られようが、酷い侮辱を受けようが、出会う人ひとり一人に頭を下げ続けた…その結果、釈尊として転生し仏教を開いたとされる訳である。

“人を褒める”という所作が、なんで難しいのか?その最大の理由は“褒めること=特別扱い”という誤解が、その難しさを上げる要因になってるからであり、褒められたからといって、その“裏”を理解できないと、後々途方も無いしっぺ返しに出喰わすハメになる。つまり、本当に“なんのため”にそういう風に言われるかってのを理解するのは難しく、また、額面通りの回答を真に受けやすかったり、常に他人からの情報を信用しない態度を取っていると、ゆえに誤解や偏見だけが一人歩きして、本当に“欲しかった”モノを失うことになる…そう、何を信じていいのか“わからない”状態であれこれ言われても、その評価に真の価値は存在しない。確実に“信じられるモノ”であるからこそ、どんな褒め言葉も、それに似合う報酬も受け止められる価値が出る訳である。

これ、組織全体でも、個人でも関係なく、“褒められる”ことは本来であれば、どんなカタチであっても“嬉しい”ことであると同時に、自分自身の“存在価値”を認めてもらえることこそ、自分自身の生きがいや誇りになる訳であって、その逆は報われないことではなく、“普通”であるからこそ本当の価値がわからないから、問題行動に発展するまで気付かれない訳である。特定の疾患でもそうだが、自覚症状が出た時には、すでに手の施しようも無いほど悪化してたってのはよくある話で、コレと全く一緒なのである。その人の何気ない行動に、一見すると無意味に見えるモノが多くても、それによって救われる事案がある以上、それはバカにできない行動であり、場合によってはなんらかのカタチで周囲が報いなければならない場合もある。感情のみで物事を判別する人の多くは、“自分”と“他人”の関係性に対して無頓着であり、とにかく自分“だけ”に執着するあまりに矛盾が生じると“他人のせい”にしたがる。しかし、関係性がはっきりとわかり、全て“自分のせい”であることに気付くと、それゆえにそれまで強気な姿勢から心が折れて、自己嫌悪からの鬱になる。当然だが、周囲の人間もその我儘に振り回された分だけ精神的ダメージを負ってる訳であり、だからこそ“自分のせい”じゃ無いとわかった時点で大暴走する訳である。そこんトコを“補う”ことこそ、実は“褒める”意味であり、他人からボロカスに言われ続けても、特定の…特に自分にとって“憧れの人”や、師匠とも言える存在の人に“褒められる”ことによって、全てをリカバーできる訳である。逆を言えば、そういう存在の人から嫌われ、ボロカスに批判されると、ただでさえ人間不信状態な精神は余計に傷付き、それゆえの精神崩壊から奇行(自殺や失踪、傷害沙汰など)に発展する訳である。

批判は簡単でも、賞賛することが本当に“難しい”のは、その価値観は人各々のモノであり感情であるという認識が欠けている以上、当然のことである。だが、お互いを信頼しあってる以上、どんなに啀み合って嫌悪な状態になっても、どこかで必ず…しかも双方から頭を下げざる得なくなる事態が起きる。その“瞬間”ってのは、どこで起きるかわからない。だからこそ、批判の中にある“謝罪”と、賞賛の中にある“侮蔑”を見極め、本当の“答え”を、自分自身の態度で、そして行動で示していかなければならない。それを見て、次世代を担う者は学ぶのです…人が“人”であるために必要な所作とは何かというのを。