迷馬の隠れ家 はてな本館

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共産主義が宗教を嫌う理由…

正確に言えば、共産主義を正義だと考える人ほど、礼節や催事にうるさい宗教の存在を嫌うトコがある。しかし、以前にも書いたが、元々共産主義の根源はキリスト教の博愛精神であり、人類救済の方法のひとつの提案でしかない。もっと言えば、清貧を良しとする概念の裏にあるのは、富裕層がアテにならないからこそのロックな発想であり、王侯貴族や聖職者の腐敗した政治姿勢に対する、聖書に基づいた抗議の意味で掲げた方針である。つまり、本来であれば、聖職者や貴族がやるべき職務を、民衆が知恵やなけなしの資産を持ち寄って執り行う姿勢こそが本筋であって、討伐や暴動といった“対話を否定した行動”が伴う行為は、完全に目的を見失った“失敗”の姿である。当然だが、首謀者の主張以外認めない態度は、その精神から逸脱した行為であり、既存の富裕層が庶民を見下すことと同じである。

本題から外れるが、今村復興大臣が一部の報道記者に対して“暴言”を吐いたというニュース、その裏にあったのは、その件の報道記者が実は“偽者(反原発運動の活動家)”であり、質疑とは関係ない(というか、国の責任として土下座しろという旨の)発言に対して声を荒げたのであり、また、時折今村大臣はエヴァのキャラクターが描かれたネクタイを着用してるのは、震災後に福島県三春町に子会社を設けたガイナックスから頂いたモノであり、福島の企業を少しでも支援しようという意思表示として着用してるのであり、そこに触れずに件の記者モドキが“暴言”を吐いたために応酬したまでに過ぎない。つまり、何が何でもメディアを通じて安倍政権を“印象操作”で打倒しようと目論む、反政府勢力の“情報テロ”に引っかかったがための話であり、こんな事でしか国務大臣を叩けない既存野党やマスメディアは、正直、民衆の味方ではない…少なくとも彼らにとって、福島県は“死の国”であらねばならず、それを口実に“国の責任”として傲慢な態度をとる姿勢は、今も懸命に復興に尽力してる福島県民や、それを支援する企業・団体をバカにしてるのと同意であり、ひいては国家転覆を図るテロリストの態度でしかない。

話を元に戻すが、共産主義者が必ず宗教をdisる時に使う言葉に、レーニンの『宗教は麻薬だ』という発言を用いるが、以前にも書いた通り、この言葉の本意は、宗教の本質である“人を敬う精神”や“法に基づいた慈善行動”から逸脱し、信徒から集めた浄財を私的な贅沢のために散財し、権威で信徒を圧政する態度を指した言葉であり、そういった“腐敗した支配”からの解放を目的とした行動として掲げたのが、レーニンが考えた共産主義のあり方である。逆を言えば、宗教が本来やるべき社会の変革をやっていれば、共産主義という概念は自然と、貴賎上下、官民関係なく“共存の一例”として根付くモノであり、そこから発展した姿こそが本来の“民主主義”である。ゆえに、本来はその基盤となる宗教哲学と実践こそが鍵であって、組織としての宗教批判はあれど、根幹の宗教そのものを批判し排斥しようという概念こそ、共産主義そのものの腐敗を招いた一番の元凶といっていい訳である。もっと言えば、“腐敗した宗教”から生まれた概念が共産主義なら、それもまた“腐敗したモノ”でしかないとも言える訳であるw

オイラから言わせれば、どんなに崇高な思想でも、どんなに権威ある称号でも、そして、どんなに人々から慕われる指導者がいる組織でも、それを“理由”に他人を見下す様な態度は、性根が腐っている証左であり、個人的なモノならともかく、それは所属組織や地域、ひいては国の品格にまで影響を及ぼす。たとえどんなに素晴らしい理念や哲学に基づいた主義主張でも、“相手”を侮辱した時点で、他の理念や思想を批判した時点で、分相応の批判や侮辱を受ける“義務”が生じる。それは、宗教に対する概念も同じで、ヒンズー教だから…とか、イスラム教だから…とか言い始めたら、それこそ、それぞれの宗派が唱えるトコの相互理解や共栄共存の理念なんて絵空事でしかないどころか、宗教が唱えるトコの世界恒久平和とか“人民に差別なし”といった概念なんて実現できる訳がない。況や、そういった“権威主義”に走った主義主張で国家運営をやってるトコなんぞ、結局は“腐敗した概念国家”でしかない。それは民主主義だろうが社会主義だろうが関係なく、純粋に“原点回帰”ができないほど、人々の心が荒んでる証左であると同時に、先人たちが築き上げた功績や歴史に胡座をかいて侮辱してる態度である。だからこそ、初めの発心に立ち返る必要があり、そのための指針が宗教哲学に基づいた概念でなければならない。そこんトコを嫌った時点で、既存の共産主義が終焉を迎えたのはいうまでもない事実であると同時に、宗教もまた、権威で民衆を支配しようとする態度を改めないのであれば、別のカタチでの“宗教排斥”の概念思想が生じる原因を、自らの手で作り上げることとなる。当然、報道メディアも同じ。民衆から支持されなくなれば、たちまち“嘘吐き”呼ばわりされ、排斥の対象となるのは、時間の問題である。