迷馬の隠れ家 はてな本館

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“独裁”にも様々な姿がありまして…

安倍政権を“独裁政権だ”という批判が散見されるが、とんでもない誤解である。なぜなら、教科書通りの独裁政権ってのは、大概は国主である王侯貴族や聖職者で、配下の民衆に対して圧政を強いるイメージだが、議会制民主主義や社会主義国家での“独裁政治”ってのは、民衆に支持された上でのモノであり、自分達でも“どうにもならない”からこそ、最終判断を行う“責任者”を、選挙や議会上で選ぶ訳である。一見すると同じ“独裁”でも、その意味合いや概念、さらには運用法が全く違う訳であり、革命ありきで考える思考の人らには、その区別が全然付かないどころか、余計にヒステリックに否定しようと躍起になる。民主主義だからこそ、逆に混乱する可能性もあれば、共産主義だからこそ、責任逃れからのたらい回しになる訳であり、そこんトコを“全部俺のせい”で片付けられるのが、独裁政治の本来のあり方であり、ゆえに、最終的には民衆を救済するために、敵対する勢力に対して簡単に首を差し出すことも厭わないほどの権限が具わる訳である。

タイにおいて去年お亡くなりになったプーミポン前国王がそうであったように、政府と民衆が対立した途端に躊躇なく軍部を双方に銃口を向けるよう指示するのは、双方に対して“敵は私一人である”という態度を示すことで、対立激化による混乱を諌めていた訳であり、仮に双方が国王に対して矛先を向けて惨殺すれば、国の混乱に乗じて近隣諸外国…特に中国の侵攻を許す事になる。だから、事ある毎に必ず“仲裁役”として政治に介入し、その際に不用意な衝突が発生し死傷者が出た場合、その“責任”を明らかにする行為である。イギリスとその付随国(環太平洋地域の国々)においても、議会ではどうにもならない様な有事は起きれば、それはすぐさま英国王室による介入が始まる訳であり、形式上ウィリアム王子やヘンリー王子が国軍士官の職務に就くのも、伝統的な仕来りに隠れた“有事の備え”であり、現段階では、最終的な決断はエリザベス女王の意見が重要となる。たとえ法律上では“政治に介入しない”と定めてあっても、有事の際に切り札を切れるのは、皇室や王族がいる国々では、その長の決断が全てである。故に、日本でも天皇陛下が御譲位を表明された事について、有識者会合が開かれて反対意見を述べたとしても、最終的には陛下の心情が最優先となる訳であり、平成という年号が30年を区切りに“最後”となることが決定したのも、そういうことである。

話を戻すと、独裁政治という概念を大まかに言えば、民衆が為政者に全てを一任してやってるのと、為政者が民衆の意見を無視して暴走してるのとでは、その意味合いは完全に違うし、また、民衆による支持で…という中身も、単に“神輿の飾り”なのか“組織の代表”としてなのかによって、その政治の腐敗ぶりが垣間見える訳である。言い方を変えれば、“選ばれた為政者”がその双肩に国や配下の民に対して自決する覚悟の責任を負えるか、それとも“勝手に責任者扱い”された腹いせに傍若無人を働くかでも、独裁政治がいいか悪いかに判断が変わる。これは何も国だけじゃなく、どんな組織でも同じで、“偉大なる指導者”と雖も、組織が勝手に風聴してるのと、自分勝手に言ってるのと、“創設者”であるからってのと、“後継者”だからってのでも話は大幅に変わる。つまり、“一番エラい人”に対して、それは“誰”を指すのかってことであると同時に、その“責任”の所在が明確なのか曖昧なのかでも違ってくる。だから、同じ“独裁者”であっても、民衆によって担ぎ出された挙句、その“全責任”を擦り付けられて処刑された人もいれば、民衆から総スカン喰らっても国家の将来を思い行動する人もいるし、“お飾り”であるから世間知らずなまま配下の役人に振り回される人もいれば、“指導者”の自覚から側近を自らの手で殺める様な人もいる。その一つ一つを精査すれば、民主主義であろうが絶対王政であろうが、本気で民衆と為政者が“異体同心”で国を動かしているトコは安泰なのであり、その逆は何時まで経っても情勢不安が拭えないのである。たとえ“民族浄化”という名の人権侵害や、宗教弾圧などを強いたとしても、それによって国家が安寧あるのであれば、余所者が自分の価値観のみで批判したとしても、意味のない行為であると同時に、そこんトコを否定したのちに起きる動乱に対し、国家や国民に対して“余所者”が責任をどう取るのか、批判した以上はきちんと示さないと、余計に血生臭い状況が続くだけである。