迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

その言葉、自分を傷つけてませんか?

何やら、一部の鉄ヲタが、四季島やななつ星、今後運行開始予定の瑞風に対して、ヘンチクリンな“反論”を展開してるようだが、そもそも、国鉄時代であるならその言い分は通用するが、今のJRグループは、まかりなくても“民間企業”である以上、利益を追求せざる得ないトコがある。そう、ブルトレが廃止になった背景には、一部、利用者…というより消費者自身の経済感覚がおかしいからこそ廃止になったと考えざる得ないという事を、キチンと理解しなければならない。もっと言えば、終夜鉄道を運行させるには、地方路線で数時間に1本程度の運行区間はともかく、大阪環状線や東京の山手線のように、ひっきりなしに列車の往来がある主要都市の区間では、保線作業を行う時間がなかなか確保できないこともあって、複線化をやっていった訳である。それでも乗客を捌ききれないから、車両編成数を増やし、増結を行い、一両あたりの車体の長さを伸ばしたり…といった努力をやってる訳であり、それでなんとか保線に費やすための時間を作ろうとしてる訳だが、40年ほど前と比べると、圧倒的に時間が短すぎる。これでは、安全運航できる保証なんて、無理だ。

JR西日本福知山線脱線事故とて、結局は“民間企業”として収益を上げる事に重点を置いたために起きた事故であって、その一番の要因は、周辺に競合する民鉄…要は関西私鉄の路線があって、そこと勝負するとなれば、どこでやるかって話になる。価格で勝負にならないのであれば、どこで差をつけるかとなれば、正確な運行時間とスピードに特化する事で支持を得てた訳であり、他の路線もまた、乗り継ぎや競合路線間での相互サービスなどで利用者にアピールしてた訳である。だが、それゆえの犠牲を、“誰”が払うべきだったのか?本来であれば、利用者に対して分相応の“対価”を求めるのが企業の務めであり、また、それナシでは従業員の処遇改善はあり得ない…のに、そこを無視して経営を行ったからこそ起こるべくして起きたのであり、また、利用者も運賃の値上げに対する“裏事情”を、キチンと理解した上で批判すべきであって、そこんトコを無視して批判するのは、的外れもいいトコである。

気軽に乗れるブルトレが廃止になった背景には、先程も述べたとおり、終電後の保線作業に費やせる時間が少なくなっていることと、その保線を行う作業員の賃金が安過ぎるが為に、慢性的な人手不足が問題になっている。その事案はJR北海道管内における脱線事故の多さともリンクしてるトコがあって、国鉄時代であればとっくの昔に、去年の台風で被災した日高本線も全線復旧してるハズなのに、鵡川以東を“廃止”するという話に至ったのも、民間企業としての判断で、これ以上の赤字を抱えたくないのと、復旧作業に動員できる作業員の確保が難しいことが、沿線住民の意見よりも重要だからである。もし、本気で復旧を求めるのであれば、沿線自治体が折半して工事費用を捻出し、保守や運行も自分達でやると言い出さなければならない。北海道新幹線を、本気で全道で走らせたいのであれば尚更で、JR北海道だけではどうにもならないぐらい、今の北海道の公共交通網は、完全にモータリゼーションにシフトせざる得ないほど利用客そのものが少ないという現状がある。エコロジーの観点から、鉄道輸送が見直されてきてる昨今において、全く真逆な現象が起きてるのは、何度も言うが、JRグループが官営から鞍替えした“民間企業”であると同時に、その時点で今までなら使えた国庫の一般会計での整備費用が、利用者から“税の無駄遣い”と批判されたが為に使えなくなったからこその話である。その危機感から、いち早く動いたのがJR九州であり、観光列車が次々と登場した背景には、それによる“追加料金”を利用者から接収する事で、本業の方の収益を少しでもカバーする為にやってる訳である。(実際は、副業の不動産などで大幅な収益が上げられた事で、本州3社以外での東証一部上場ができた訳で…w)

つまり、民間だからこそ、気持ちよくお金を落としてくれる富裕層になびくのは当然の話であり、ブルトレの料金が“高い”といって敬遠し、格安夜行バスやLCCとかを利用してるなら、とてもじゃないがJR各社を批判する筋合いはない。まして、JR東海にとっちゃ、東海道新幹線で出た利益を、リニアの開発や建設費よりも管区内のローカル在来線の保守に充てたいのが本音であって、JR四国に至っては、とっとと全線電化したくても収入が乏しいが為に、運行本数をギリギリまで減らしてるのが実情である。だから、本業である鉄道事業で収益を得る為には、富裕層からどれだけ“気持ち良く”お金を落としてもらえるかに掛かってる訳であり、それが東北新幹線北陸新幹線の“グランクラス”料金でもある事に気付こう…“快適な空間”を提供してもらうための“対価”を、文句言わずに払ってくれる利用者を“有難い”と思うからこその話であって、その“静けさ”が耐えられない人は、自由席でどうぞなだけである。