迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

全ては“選挙で勝つ”ための方便w

小池百合子東京都知事の態度にしろ、韓国政府の態度にしろ、そこにあるのは全部“支持率維持のため”だけであって、本当に本質を見ずに、民衆に嫌われることを恐れ過ぎて、取り繕っているとしか思えない。

大阪府民の多くが、都構想再論議に対して腰を据える考えを見せているのは、これまでの一連の流れを、一人残らず見守ってきたからこその話であり、そこにはメディアが報じない、本物の“大阪人気質”が根付いてるからこその話である。そう、大阪という土地は、もともと三つの国の集合体であり、それぞれに文化も風習も、“大阪府”という一つの自治体でありながら、地域的な見方をした際、完全に異質である。それが本気で“一つになろう”と考えた時、どれが“正しい”のか、どれを“歴史に残す”かといった細やかな部分までも手を抜かずに議論してきたのが、本来ある大阪人の姿であり、そこから導かれた政策をやってきたのが、大阪の府政であり各市町村の政策であった…このあり方が崩れたのは、いうまでもなく22年前の阪神大震災以降であり、それ以前から、国(というより、官僚)が“東京一極集中”を是とする考えで経済界に対して指導したせいで、本来であればバックアップ機能を残すべきを、一斉に排した訳である。そこからどうやって、本来あるべき姿へと戻ろうと躍起になってるか…関西にいると、その変革の流れはよくわかる訳で、民主党イケイケだった時に、当時売れっ子弁護士だった橋下徹を府知事候補に推したことで、歯止めがかかるだけでなく、大阪の衰亡を“誰”が一番望んでいるかという構造すら見えてきた訳である。だから、松井一郎大阪府知事や吉村洋文大阪市長が支持される訳であり、その会派(所属政党)であるおおさか維新の会が、大阪府下では圧倒的支持をされる訳である。そう、そこにあるのは、きちんと“仕事”してる姿を、包み隠さずに示し続けていることが、大阪府民及び市民に、多大な支持を得る原動力になっているのだ。

ではなぜ、こんな拗れた社会になってしまうのか?全ては民衆そのものが、民主主義の本質ってのを、きちんと理解できていないことが全てなのです。でも、どうしてそうなるか?それは、“民主主義”という社会行動が、あまりにも“当たり前”なモノになってしまって、誰一人として疑うことなく、そして、その意義を教えることなくここまできたからです。仏法で例えると、形骸化した法の教えでも、なんとなくだがどうにでもなるという“像法時代”の末期症状です。こうなるとあとは、“末法”すなわち“破壊&消去”だけです。仏法でも、法が正しく機能してること、きちんと理解できていることを“正法”とし、これが維持できるのは、その場に立ち会い、請願して実践する人が鍵だとされてきました。だから“末法”の時代になった時、その原点に正しく立ち返って実践すると、必ずと言っていい程、様々な困難とぶつかるという旨が、法華経には記載されています。

つまり、“民主主義”の原点は、自分達の代表を自分達の手で選び、それに対して責任を持つことこそが胆であり、それは王政に対する“新しい政治のあり方”を示すモノでなかったら意味がないのです。故に、民主主義の最終的に行き着く先は、一般的に考えられる社会共産主義と資本主義のハイブリットなカタチだとオイラは考えるのです。逆を言えば、既存の共産主義者はなぜ資本主義を嫌ったか?それは“富の一極集中”が顕著だからです。しかし…それはよく言えば貧困層の僻みであり、悪く言えば、その心理を利用してさらなる富を得ようとする“貧困ビジネス”そのものを提唱してるようなモノです。共産主義者を標榜する人が、自己の正義のために暴力を振るうのは、ぶっちゃけ、自分以外では“世界を救えない”という自惚れであり、盲目なまでの自己陶酔です。だから、“聖職者”というだけで、その人が社会貢献をやってても簡単に惨殺するし、支持者じゃなくても献金や援助をやってくれる資産家に対しては銃口を向けにくいのです。“支持されている”という錯覚が、正邪を判別を鈍らせてる証左です。

“選挙のため”ならなんでもアリだと、その歯止めとなるための公選法は意味をなさなくなるし、そもそも選挙そのものが“いらないシステム”になってしまいます。勝手に議会や法律が決まって、それに従えばいいだけですからw しかし、そういう放置状態で物事がなんでも決まってしまうことは、逆をいえば“人間”そのものも、社会から“不要なモノ”ということになります。なんせ、全部機械的に物事が動いてる以上、バグが出ない限りは、何でもかんでもノンストップで進みますから。だが、その“結果”どういうことになったかは、歴史は皮肉にも教えてくれる…社会そのものの“腐敗”は、人々から思考を取り上げたことで、本当に“何”が“正しく”て、“何”が“悪い”かの判別がつかないまま突っ切った結果、途方も無い絶望と、ただただ朽ち果てるのを見てるだけという“暗黒な未来”しかない。それはナチスに一縷の期待を寄せたドイツ然り、スターリンの思惑に従わざる得なかったソ連然り…一方では自分達で“望んだ”ハズのモノが、いつしか息苦しい“管理社会”へと変貌した背景にあるのは、本来民衆から監視されるべき対象だったモノが、民衆を“監視する”立場を悪用したからです。そうさせないための選挙であり、監査請求なのです。それが法令によって民衆に与えられた“権利”であると同時に“義務”なのです。

その“権利”と“義務”を、民衆があまりに無頓着だからと言って、そこんトコを悪用しているのが既存野党なのであり、逆にそこんトコを口酸っぱくして訴えてるのが公明党やおおさか維新の会の“選挙活動”なのです。参政権があるということは、政治を備(つぶさ)に監査する義務が有権者には生じる訳であり、そのための“情報公開”の場としてあるのが国会中継であり、各自治体の議会中継だったりする訳です。今でこそネット配信によるタイムフリーでの視聴も可能になり、メディアが“編集”して報じる審議内容を精査できるようになりましたが、それが無かった時代、国防に関わる重大な事件で失脚するならともかく、多くの政治家が、いわゆる“汚職事件”というしょうもないトラップで潰されたやら…