迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

その言葉、どこを向いて喋ってます?

ここんトコ、Twitter上において、大助クン…もとい、桂春蝶が、所謂“自称リベラル”に叩かれているのだが、こんな痛快な呟きで喝破している。


まさしくその通りだし、異口同音で、武豊騎手もかつて、父親の武邦彦調教師との比較をした記者に対し、きっぱりと

「父は父、ボクはボクです…」

と言い放っている。彼等にとっちゃ、親と比較されることに関しては宿命的なトコがあるが、だからと言って、全人格を否定する口実に“親の名”を使ってること自体、それこそ、ブロマガで指摘した部分と同じで、“相手”を間違えた態度である。言い方を変えれば、大酒飲んで酔っ払った挙句、見当違いな相手を殴ってるのと同じである。

リベラルを語る人に多いのは、自分の意見と相反する人を攻撃する術として、必ず、攻撃対象者の親族縁者や、尊敬する先輩、師匠などの名を使う。しかし、そういう人らが一番見落とすのが、対象者とその比較相手は、職業は同じでも人格までも“同じ”ではないということ…つまり、いくら宗教が同じでも、同じ民族、同じ出身者であっても、当然、親子であっても“別人”であるという概念を無視してる訳である。この時点で既に、当人の事なんて、全然見てない訳であり、目の前にいたとしてもわからないのである。

本物を知るとは、きちんと相手を“別人格”として比較する。それは、先代の技能を踏襲するだけでなく、プラスして当人の個性や感情が加わった姿こそが、当代であるからで、その比較は芸事だと舞の一つ、噺の一つに至って、違いを楽しむ事が胆であり、スポーツ選手でも、同じ種目をやるにしても、学び方や競技ルール改定などの、様々な要因で違ってきて当然であり、同じモノに見えても、その中身は、当事者の感性による補正が入る。そこを無視して、“前のが良かった”という人は、結局は何も見てないし、関心もないのである。だから、名前“だけ”を見て、過去…先代を“知ってる”というだけで当代とは“別人”だという認識がないのであり、叩く目的も、単に“自分好み”の存在に作りたいだけである。当然だがそれは、故人となった先代や贔屓の存在を引き合いに出す際に、自分の勝手な感情のみで語るのも同じで、存在を“知ってる”だけであって、その人の人格や性格なんてのは、全くもって“表面上”の情報のみの話である。(ま、オイラもそこんトコは、他人のことを言えた義理ではないがw)

だからこそ、オイラが一番肝に命じてるのは、同じ仕事をやってるモノに対して、的外れな批判はしないという事である。大関アナに対して、競馬実況アナとしての指導として、広瀬アナが遺した様々なエピソードを話すことはあっても、それ以外の部分はできるだけノータッチにしてるのは、そういう事である。逆に、もし競馬実況以外の余計な事を言い始めたら、広瀬アナだけでなく、その実質的な指導官であった藤田アナや北野アナをもバカにする行為と同じである。競馬実況アナとして大成して欲しいと思うのであれば、純粋に競馬実況だけ聞いて比較してやるのがスジであり、それ以外の、特にプライベートな話まで首を突っ込むのは、失礼千万な話である。当然だが、当代の春蝶に対しても言えた話で、噺家ラジオパーソナリティとしての部分で比較すれば、父親である先代と比較したら、面白くないというか、ちょっとオイラの好みじゃない。が、人格的な部分で言えば、その思いは父親の後を踏襲すると誓った時点で、相当な覚悟と忍耐を感じることがある。父親である先代も、結構毒舌ではあるが、話の筋だけはきちんと踏まえた上で、面白おかしく喋っていた…そこんトコはさすがに親子だなって感じるが、リベラルがいうトコの“正義”ってのは“親子”だからこそ相反してても良い訳であって、そこまで全く“同じ”なら、“息子”という存在なんて必要ない話だ。一人の“噺家”として憧れ、その志半ばで病魔に倒れた先代を、今も想うからこそ“春蝶”という名を引き継いだのであって、父親の姿を“尊敬すべき存在”としてないなら、実の息子であっても名跡を継ごうとは絶対に思わない。それは、“競馬関係者”一家として生まれた二世ジョッキーも然り。

だからこそ、ハッキリ言おう…批判する前に、どこ見て喋ってんだって。