迷馬の隠れ家 はてな本館

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人材育成には、品格が伴う…

大相撲九州場所が荒れている…というより、土俵の外側での行動に関して、様々な情報が飛び交っている。もちろん、格下力士相手に、土俵以外の場所で怪我を負わせた横綱の品格を問うのは当然としても、そこに至るまでに“被害者”となった力士が、どんな無礼を働いたかを考えた時、その“師匠”の品格も問わざる得なくなる。事の次第に関しては、メディアや相撲協会の公式見解を待つとして、今回は、人材育成に重要なことは、人としての“品格”がどこまで形成できるかについて。

一口に“品格”と言っても、職種や出自等による部分も往々にしてある訳だが、基本的には、どこまでも自分に厳しくても、相手に対して“対等な立場”として扱えるかに掛かってるトコがある。どこの組織に所属していようが、どんな役職を持っていようが、どういう経験を積んでいようが関係なく、とにかく“相手”に対して上辺だけの威厳ではなく、今の立場に対して責任を負う覚悟と信念を持って接し、立ち振る舞うかで、その“結果”は変わってくる。逆を言えば、“品格”がない人に限って、現時点での肩書や過去の栄光に関する自慢話で相手を見下そうとする訳であり、そうでもしないと自我が維持できないほど貧弱なのである。これ…実は子供のいじめの構図と全く一緒で、いじめられる側の人格や実績、様々なスキルなどを、いじめる側としては“全否定”しないと気が済まない訳で、それでバカにされるのが嫌な者は、故にいじめる側を“正義”として逃げ続ける訳である。いじめられる側にしたら、それゆえの“人間不信”から余計に精神が病むことが多い訳で、仮に、その才覚や性格などを褒める人…特に自分の親世代が一人でも認めてくれたら、それだけで精神的な“避難所”ができる訳であり、それが“原理主義”を掲げる宗教であったり、邪なカウンセラーだったりすると、話が余計にこじれる訳であり、その“避難所”までも否定されれば、もうあとは“人間よさらば”という展開にならざる得ない。その方向性が自死を選ぶか、無差別殺戮に向かうかは、ある意味“気分次第”としか言えない。その“一歩手前”で窘めることができる人と巡り会えた時、最初こそ反発することはあっても、次第に惹かれ、憧れる様になると、やがて自分自身を見つめ直し、人生の“軌道修正”を行えるようになる訳である。

この“人生を変える”出逢いから、自分自身の“本当の弱さ”と向き合い、どう正していくか…その過程において、人としての品格と、そこへ導いてくれた人を“師匠”として尊敬する姿勢が形成される訳である。ここの部分の経験が未熟だと、当然だが、“相手を敬う”という概念すら存在しない訳であり、ゆえに自分よりも若い世代を見下したり、経験値が高い相手のミスを発見しては罵倒し、とにかく“自分が一番w”と言いたいばかりにナメてかかる訳であり、失敗して他人に罵られたり、才能そのものを低く評価されたりすることを嫌うあまりに、臆病な性格になる訳である。そうなると、強気な発言したあとで恥を掻くことを嫌うから、いわゆる“長いモノに巻かれろ”な発想に至る訳である。これこそ、単に“常勝”を好むあまりに様々な手段を辞さずに傍若無人を働き過ぎて、人生の“敗北街道”まっしぐらな生き様につながる訳であり、勝負をしないが故に、“負け”もしないけど“勝つ”本意を知らぬまま、人生の勝負所で怖じ気付く訳である。結婚することも、子育ても、(就活も含めて)それは様々な意味での“勝負事”であって、そこを避けて通った結果、最晩年で寂しい思いをしたまま心身共に瓦解する訳である。昨今の“孤独死”の多くは、おおよそ、そういうことである。

人としての“品格”は、まさに、人生の経験上から醸し出される独特の“オーラ”の様なモノであり、人としての立ち振る舞いが厳格であればあるほど、常に“相手”を意識し、自分自身の襟を正すことに精進する。だから、相手がどんな存在であっても、自分とは“対等”な存在としてもてなし、“対等”な存在として讃えることができる。それに対して言葉通りに気を良くする人ほど勘違いを起こしやすい…そう、“認められた”と言っても、それは多数の様々な意見を持つ人々のうちの“ごく一部”でしかないのであって、その他大勢は、そもそも“自分”という存在そのものすら認知なんてしていないw もっと言えば、大多数の人々が、自分の意見に対して拍手喝采してたとしても、価値観の合わない相手が、自分の価値観に鑑みて“拒絶”してる以上、“己磨き”を行う余地がまだあるという証左であり、仮に“相手好み”の自分を作り上げれたとしても、そのために今までの人脈が途絶えることになる可能性だってある。万民受けを狙うのであれば、それこそ様々な価値観を認めた上での精進・鍛錬が必要なのであって、場合によっては、それが原因ですべての信頼を失うことだってある。が、そういう“失う”可能性があるモノに執着しすぎると、結果的には、“何もできない”自分が出来上がる訳である…いわゆる“社畜”が量産体制になる背景には、そうなる事でこそ“人類皆平等”となると信じた結果であり、単一化する事で“全員幸福”になると信じたからこその話である。でも…本当の意味で“幸福”になれた人は、その環境下であっても“ごく一部”であって、その他は“与えられた型通りの幸福”に対して不満を漏らしながら死んでいくのがオチである。つまり、どういう教育を受けようが、どういう環境で育ってきたかとか、そんなのは“どうでもいい”話であって、相手を“敬い思う”気持ちの持ち主は、どんな立場であろうと関係なく、それこそ万民に慕われる。だから、“本物の指導者”というモノは、自分も教化し、相手をも化他していく…“共に歩もう”と声をかけ、どんな時でも“一緒”に困難に対して立ち向かう勇気と、たとえ絶望的な結果しか残されてなくても諦めず、未来を信じる力を常に持っている。そういう人の“品格”は、形式や肩書といった上辺だけで奢れたる者とは雲泥の差であり、ただ傍にいるだけでも影響力は絶大である。

昨今の“人材不足”の一番の要因は、いうまでもなく、それを怠ってきたツケであり、そのための育成費や技術習得の機会を奪ってきたことに対する“結果”である。加計学園獣医学部創設に認可を出すことに対して、未だにイチャモンつけてる連中の顔ぶれを見ればわかる様に、肩書きに似合うだけの品格が全然伴っていない。むしろ“世間知らずな子息”が、まるで’唯我独尊”と言わんがばかりに喚いている様にしか見えない。これが国政を担ってるのかと思ったら、そりゃ、投票に“行かない”という選択肢を選ぶ人の方が増えて当然な話じゃないですかw ま、自分自身が気付かずに放置している限り、未来永劫、この“悲劇”は延々と続くでしょう…それを“自分自身”が望んでいる以上はね。