迷馬の隠れ家 はてな本館

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防げた“事件”と変わらなかった“体質”…

ま、この記事の続報的な話であると同時に、今回の件で言える事は、日本相撲協会そのものは、先の事件(力士暴行死亡事件&八百長問題)からの経験から、“何も進歩してない”ということが露呈した訳である。もっと言える事は、そもそもは貴乃岩がやった“行為”について、本来であるなら、師匠たる貴乃花親方自身が、周囲からの情報をキャッチした上で指導し、本人に反省を促すのがスジであったにも関わらず、その“順序”が間違ってるからこそ、話がおかしな方向へ転がっただけであり、日馬富士の“態度”も、本来であれば白鵬に取らせるべき判断なのにも関わらず、そこを自分で“やっちまった”訳だから、しかるべき懲罰(=責任払いでの引退)になるのも仕方ないトコである。しかし、こういった事態になった最大の原因は、日本相撲協会の因習そのものであり、そこんトコの改革を求めたのは貴乃花親方自身だとしたら、この闇はかなり深く、相撲人気が衰退してしまう事になるでしょう。

“因習”の多くは、昔からの慣習だからとか、部屋の伝統だからといった“言い訳”が聞かれる訳だが、では、それは“何のため”にあるのでしょう?ここんトコをキチンと理解し、教える事ができてないと、“意味のない仕来り”や“形式だけの儀礼”だけが横行し、本質が廃れてしまう事になる。これは何も、日本相撲協会に限らず、あらゆる組織・団体にも言えた話であり、当然、国や宗教にも同じ事が言える訳である。仏法における“三法(正法・像法・末法)”の時系列は、まさにコレを言い表すモノであり、ここをしっかり理解してると、今回の“事件”の背景にある“内密体質”という甘えを糾弾する事ができるとも言える訳である。

“三法”についてざっくり説明すると、当事者(指導者)の生き様や哲学に感銘し、その言葉通りに実践し、より深く理解しようというのが“正法”であり、当然ながら、指導者なら行動や意味をきちんと解説し伝承する意味もある。故に、そういう経験がある人が指導する以上は、そこに“責任”も生じる訳であり、もしも指導に誤りがあったら、それは指導者自身にも及ぶ事になる。故に、師弟不二で“学び合う”姿勢こそが肝心とされる。で、“像法”とは、実践が伴わない、ある意味形式のみが残ったモノであり、指導者がいないからこそ、また、その意味を中途半端な解釈で次世代に教えてるモノであるから、意味そのものが通じなくなってる訳で、だけど、感覚的には“凄いモノ”として残ってる様と言っていい。だから、師匠と弟子の関係も、“学び合う”から“一方的な指導”へと変貌する訳である。そして“末法”とは、完全に意味が変わってしまった上に、全く無意味な行動や概念が尊ばれ、もはや存在価値も威厳も“紛いモノ”に変質した状態を指す。当然だが、師弟関係も単なる“階級”になる訳であり、“師匠の粗相は弟子の責任”という本末転倒な話へとなる訳である。今の日本企業の“体質”も、また、既存野党の“態度”も、実はこの“末法”と同じであり、完全に“無意味な価値観”だけである。

いわゆる“改革”を望まない人達にとって、現行の制度のままでいいと宣う背景にあるのは、いわゆる“同調圧力”に屈する事で、一過的な安堵感を維持しようというだけの話で、“問題”の解決から、ずっと目を背ける事で逃げる態度を取ってるのであり、引いて言えば、韓国の“慰安婦問題”に対しての政治的決着を“認めない”というモノと同じである。要は、そうする事で、自分自身の“責任”を他人に丸投げする事で、自分が“いらん被害”を受けずに済むという考えてやってるのと同じ。韓国では、慰安婦問題は“永遠に全部日本のせい”とする事を支持しないと、周囲から変な嫌がらせを受けるという…しかし、考え様によっては、それが“何のため”にそうなるかを“説明できない”人の方が多いだけの話であり、勇気を持って“責められる側”に立てば、この問題が如何に“自分を卑下してる”行為であるかがわかる訳である。(つまり、某報道機関が言い放ったデマを、国家レベルで訂正しない限り、韓国の民衆はずっと、国際的な位置付けで“下品”と言われ続ける事になる…)逆に、同調圧力に屈しなかった人々は、故に物事を冷静に、そして事の本質を見抜く事に長ける訳である。“孤立無援”と言っても、ワザとその“位置”にいる事で、“自分”という存在を見失わず、果たすべき“使命”を自らの意志で導き、邁進する事ができる訳で、そういう人ほど、時代の変化にも即応できる訳であり、物事を様々な角度で見て判断することもできる訳である。

話を今回の“事件”に当て嵌めると、今回の“飲み会”とは別の案件で、貴乃岩がやった“横柄な態度”に対し、支援者の幕下が貴乃花親方に、最初に報告してたら、そこで済んでた話であり、支援者自身が親方を“信用できない”から、相撲とかに関係がないモンゴルの知人とかに話し、それが誤解を生んだがために話がこじれて、場所前巡業中での“飲み会”で“事件”が起こった訳であり、その際に素手ではなく“武器”(カラオケのタブレット端末)での殴打となったから警察沙汰になる訳であり、また、貴乃岩自身も師匠である親方に、事の次第を“正直”に話していない時点でOUTであり、怪我の程度を“軽く”報告してたら、そりゃ無茶させるハメになる訳であり、その時点で“自業自得”ですわ。それを、組織ぐるみで有耶無耶にしようとするから貴乃花親方はブチ切れた訳であり、弟子が可愛いからとかではなく、完全に自分の指導が至らない事から来た“事件”と言えど、帰属組織の態度が“あの一件”以降何一つ改まっていない事への憤懣が、ここで爆発したと考えると、まさしく“末法”だからこそのドッタンバッタンだとしか思えないんですよねw

総じて“改革”とは、自分を改めることだけでなく“原点回帰”を意味する場合もある。つまり、“外”にいるからこそわかる部分と、“内”にいないとわからない部分、どっちとも言える訳であって、どっちか一方だけの意見でも歪になるだけで、結局は自分で自分が“意味不明”になりかねないからこそ、時として振り返ることも、立ち止まることも必要なのであって、そこを無視すれば、必ず行き詰まったり、無理矢理答えを求めようとして邪な方へと足が向くことに成り兼ねない。だから、“初心忘るるべからず”であり、“月々日々につよりたまえ”という御金言が生まれる訳なのです。