迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

クリスマスツリーで騒ぐ前に…

“世界一のクリスマスツリー”が神戸にできた訳だが、このプロジェクトに関して、様々な批判が出てるのだが、そもそも、クリスマスツリーってのは、キリスト教が主流の欧米諸国において、表向きにはモミの木(=常緑樹)に宿る“生命力”の象徴ではあるが、裏を返せば、冬場の暖房用の燃料確保の意味合いもあったりするんで、正直な話、環境破壊だとか神木を勝手に伐採したとかって話自体、バカじゃねって鼻で笑うレベルな話である。言っちゃ何だが、正月飾りの一部も、そもそもは新年を無事に迎えるための儀礼であると同時に、冬場の“燃料確保”の意味合いもあったりする訳で、所謂“とんど焼き”という風習も、単に正月飾りや書初めを焼く以外に、その火をかまどに移してぜんざいを作ったり餅を焼くことで無病息災を願う訳であって、その火で暖を取るのも、冬場だからこその話だ。

クリスマスツリーも、本来は日本の正月飾りと同じで、日本の暦でいうトコの“小正月”まで飾った後、片付けるのが本来のしきたりであり、昨今のプラスチック製の人工木(要は造花)はともかく、モミやスギ等の原木で飾ってる場合、その“始末”に困るケースが多々ある訳で、苗木だと慈善団体が回収して、森林公園などに植樹するケースもあるが、大型の原木の場合は、そういう訳にもいかない…だから、毎年クリスマスが終わるとチェーンソーや斧で解体し、翌年のクリスマスの暖炉に焚べる薪にする訳である。(生木のままだと燃焼しない上に煙たいだけなので、必ず最低半年以上、乾燥させる必要がある。)厳寒期が長い北欧やロシアでは、都会じゃ無理でも田舎に行けば、今でも薪ストーブを使う家庭があるほどであり、燃料としての樹木伐採に関しては、あまり文句言う人は少ない…原発や化学薬品による土壌汚染はピーキャラ言ってる割に、冬場のPM2.5の発生とかは目を瞑ることが多いのは、本能的に“焚火が暖かい”というのを知ってるからこそである。

日本におけるクリスマスの概念ってのは、完全にキリスト教の慣習から逸脱した行為であって、家族でやる忘年会の一つでしかない。また、クリスマス商戦は、迎春準備商戦と同時進行であり、冬のボーナスでホクホク状態の消費者を狙った、えげつないモノでしかない。が、それが一般化したのは、あくまで戦後の高度成長期において、歓楽街での乱痴気騒ぎを禁じた(朝鮮戦争特需で、歓楽街の一部で、クリスマスにオールナイト営業をやったことで、酒絡みの死傷者が出たことを受け、一時、風営法等で規制をかけた)ことから転じたモノであり、同じ様な意味合いで言えば、大晦日から元日にかけての乱痴気騒ぎも、正直言えば考えモノだと思う訳だが、ここに関して、日本人は誰もツッコまない。ま、日本人にとっちゃ、元旦が“勝負”ってトコがあるし、そこんトコの感覚で言えば、冬至から日の出時刻が早まるタイミングで“春を祝う”という概念は、宗教や風土が違えどほぼ一緒と考えていいかもしんない。

閑話休題、一昨日(12月8日)から始まった神戸ルミナリエに関しても、元々は阪神大震災からの復興を願ったクリスマスイベントだったのが、元町商店街など、地元の商店主達が“迎春商戦の邪魔”という理由で前倒しされて実施する様になったのであり、そのことが遠因で、実は毎年の開催費用の捻出が厳しくなってきてるという…他人が聞けば、なんて本末転倒なことを言ってるんだと思われるが、毎年行ってて鑑賞ルートを把握してる人ならよくわかるが、元町商店街やさんちかを“素通り”するんだったら、神戸ルミナリエを“やめっちまえ”という声が出るのも仕方ない話であり、また、そういう意見を出す人ほど、商機を逃してることに気付いていない…一時のイベント期間中に集中してやれば、相当な利益を生み出せるのにも関わらず、それを活かせていない時点で、“何言ってるんだ?”としか言えない。競馬を含めた公営競技でもそうだが、ビッグイベントを開催するにあたって、それを“迷惑だ”と言ってる、ごく一部の住民の声“だけ”を取り上げて、それを“民意だ”と主張すること自体、地域の活性化を否定し、衰亡することを自らが望んでるのと同じである。それは今、中小企業を中心に“40代の技術者不足”で嘆いてる最大の原因は、20年前のバブル崩壊期に人材育成のための新卒者採用を“不景気だから”を言い訳にして、やらなかったツケであるのと同じ。育成費をケチれば、後々“人材不足”になるのは当然の話であり、必要な部分を何も学ばず、いきなり“これやってw”って言われても、できる訳がない。

しきたりや儀礼の類には、そもそもの謂れが存在し、そこんトコをきちんと理解した上でやってる分には、批判される筋合いはない。しかし、それを理解できてない人が、いきなり目の当たりにしたら、その“異質感”が先走って、あらぬ方での批判が蔓延する。そこを説明したとしても、必ずそこを無視して持論を展開し、全体を滅茶苦茶に破壊する輩が、ごく少数存在する上に、その部分だけが目立つあまりに、さらに誤解が生じる訳である。その歪みを正そうと思ったら、むしろ“無視”するしかない…存在を認めた上で、敢えて“相手にしない”態度を取れる様になれば、大概の事は大成するのが世の常である。逆に、些細な事で躓いてる様では、重要なプロジェクトでも、それが原因で失敗することになる。だから、他人を批判するのは簡単でも、自分の専門外分野に対しての批判は、とても失礼な話であり、逆に経験者であるからこそ、敢えて“言わない”事だってあることを知った方がいい…人間はいつでも、自分の知らない部分で、自分の“専門外”の分野で、様々な人が支えているのだから。