迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

宗教と犯罪〜一連のオウム裁判における、とある“批判”について〜

あくまで、一部SNSまことしやかに流れてる情報の範疇なので、なんとも言えない話なのだが、もしもそれが“本当”であれば、たまたま近くに学会員がいて、その人と仏法対話をやった末で納得した上で自首したからこその話であって、その後の裁判の結果とは関係ない。もっと言えば、改宗したいからこそ、更にはきちんとした事を話すにも周囲が信用“できなかった”からこそ逃げ続けざる得なかったという部分があって、そこんトコをきちんと整理するには、じっくりと話を聞いてくれる存在を求めたからこそ、たまたま近くにいた学会員に“縋った”だけの話だ。で、なかったら、もともと創価学会を“怨敵”としてやってきたオウム信徒である以上、たまたま聖教新聞の勧誘に来た隣人を、とっくの昔に殺してる。

つまり、そんだけ周囲から叩かれ続け、心身ともにボロボロなカルト教徒を救済するには、まず、固定概念で批判する、いわゆる俗衆増上慢(ぞくしゅうぞうじょうまん)な周囲よりも、様々な宗教哲学に関して精通し、かつ、しがらみに捉われない感覚を持つ人の方が説得しやすく、感情的になりにくい訳である。これは何も他の宗派の人でもできる事なんだが、根本的な違いを言えば、学会員の場合、特定の信徒だけが自分トコの宗派の教義を解説できるといったカタチで宗教哲学を扱ってるのではなく、ほぼ新入会の人でも、データ共有できるほど教学を徹底してやっているからこそできるのであり、仮に教学の理解度が低くても、“相手を想う”という概念がある以上は、誰でも折伏は可能なのです。ただ…そのためには自身が実証を示す必要があり、そこの部分で蹴つまずく人が多いから、信仰から遠ざかって苦労する訳であり、現に今、オイラ自身もそういう状態ですw(Twitterでも呟いたが、旦那が入院してエラい目に遭ってるんでね…)

話を元に戻すと、幹部信徒で一連の事件に関わった首謀者の一人になってた女性に対して、裁判で“無罪”となった件について、詳しい内容等は言及を避けますが、この件で創価学会を叩く人は、よっぽどの宗教嫌いというか、なんらかの“宗教アレルギー”持ってませんか?仮にそうじゃなかったとしても、何を根拠に宗教を愚弄するのでしょうか?宗教は精神的に弱い立場の人が縋る様な代物ではありません…むしろ、世間からバカにされ、日常的、かつ、当たり前な概念に対して賞賛してる事が“気持ち悪い”と罵られる事を“恐れない”人だけが、初めて受持できる精神の柱であり、原点なのです。だから、折に触れて聖書を読み、本尊に向き合って声明唱え、神に請願するため五体投地を行い、出会う人相手に説法をやる訳です。逆を言えば、他の宗派に属してると、自分トコの常識が通じない時点で“異端”と見えるだけであり、故に批判する訳です。周囲の人間が批判してるからといって、何も考えずに相手を叩いてる事自体、それは真っ当な考えではなく、周囲に“流されてる”状態であり、無責任な姿です。

宗教を“気持ち悪い”という人ほど、その“真実”に触れる事を、極端に恐れる人が多い…そこに引き摺り込まれると思い込むからであり、心の何処かで“求めてる姿”があるが故に“否定”したい気持ちが存在するのであり、それに対して抗うから、結局精神的に“歪む”のです。だから、受験勉強に没頭する人ほど、大学進学と同時に、他人との付き合い方に戸惑い、そこで挫折する一方で、自分の“知らない世界”に惹かれていく傾向があって、そういう人ほどカルトな方へと足が向くのです。その結果が、一連の“オウム事件”の発端となる訳であり、また、過去の事例でいけば、学生運動から拗れた“あさま山荘事件”や“成田闘争”等の極左思考主義者の騒動に結びつく訳です。社会共産主義という概念も、スターリン以降のあり方は、完全に“カルト宗教”です。そこに気付いた人達が、内外にいた訳であり、そこを“粛清”したかったからこそ、様々な“紛争”は頻発してるのです。そしてそれは、現在進行形で世界中で頻発してる出来事の、根幹の部分での“救済”を求めるサインでもあるのです。

宗教のあるべき姿とは、本来は、そういった“精神の救い”に応える存在であると同時に、揺れ動きやすい命の不安定さに対する明確な指針を示す地図と羅針盤…だからこそ、自分の“生き様”を示すことに、宗教批判を用いるのであれば、それに似合う“結果”を示さなければいけない。それができない人が、どんなに様々な宗教を批判したとしても、それは単なる僻みであり、羨ましいからこそ、そして…自分の理想が“他人”によって示されていることに対する“怒り”と“焦り”があるからこそ、否定したくて仕方ないのです。あまりにも、他人が幸せそうにしてることに対し、自分と“対等”であって欲しいから妬み、攻撃し、破壊するのです。でも、それを“望んだ”のは誰ですか?

あの時のオウム信者が本当に望んだ事は、世間から“正しい宗教者”としての称賛であり、そのために手を汚したのです…もっと言えば、多くの信徒を“騙した”のは、当の指導者自身であり、そこには、完全に“個人的な恨み”以外存在しません。だけど、それ故に、多くの大学生が惹かれた背景には、その“個人的な恨み”が、自分の親や知人による“勝手な期待”という概念で“一致”してたからこそであり、その闇を見破れなかったからこそ、親族・縁者であっても、あの“蛮行”から救えなかったのです。精神的に救いを求めたのは、いうまでもなく、オウムに傾倒した若者達自身であり、それを救う手立ては、本当であれば社会そのものが用意すべきモノだったのです…けど、それを“拒んだ”時点で、“対立”は決定的だっただけであり、今更救済を行おうにも、どうにもならないのです。だったら、その“罪”を連帯責任で背負うべきは、当時、情報に流された挙句、宗教全般を批判し愚弄した者全員が背負うべきであり、反面教師として、この事件のことを記録し、後世に伝えることが義務となります。邪宗だからと揉消すのではなく、“何故こんなことが起きたのか”を宗教の概念から見直し、記録することで学ぶ事ができるのです…正しい“宗教”とは、どこまでも人々の心を救済するための場であり、そのために歴史背景や社会情勢を学び、後世のために考えていく場であると。