迷馬の隠れ家 はてな本館

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名護市長選挙がきな臭い話になってる件について…

あくまでSNS内での“情報”でしかないんで、沖縄&大手メディアは報じない話なのだが、今、沖縄の名護市長選挙で、現職市長が対立候補の選挙事務所に“カチコミ”に行ったという話がある。これ…明らかに公選法違反だし、それがまかり通ってる時点で、沖縄県の選管は“仕事してない”という批判が出てもおかしくない。が、日本に復帰して以降、現在まで、“特例”という名の下で好き勝手やってきた事が、ここにきて民主的議会政治を“否定”する輩を跋扈させた訳であり、沖縄県民をどれだけ“傷付けてる”かを、件の輩は知らんのである。“無知”であることを良い事に、自分達の“主張”こそが正義であり、そのために他の意見を“排斥”するためなら手段を選ばないのであれば、その事が“原因”で、沖縄出身の若者が本土の企業に就職できずにホームレスになったり、低賃金の職にしか就けずにで苦労する訳であって、その憤懣の捌け口が、最終的に故郷が寂れていく訳である。

そもそも、沖縄県の“米軍嫌い”の背景にあるのは、当然だが、日本が終戦間際に沖縄や奄美小笠原諸島を“捨て駒”にしたという“歴史的事実”が存在し、返還されるまでの間、アメリカ領扱いとして米軍関係者が傍若無人を働いた…という話が根底にある。要は、そこんトコでは朝鮮半島の連中と同じ“意見”なのである。だが、ここでちょっと考え方を変えて欲しいのだが、仮に、本当に日本が沖縄県に対して、本当に“捨て駒”としか思ってなかったとしたら、本土も都市部を中心に戦火に巻き込まれ灰と化したのは、政府(この場合は暴走した軍部)に誑かされた国民も、同等の批判をやってないとおかしいのであって、そうじゃないことを踏まえると、いかに情報が乏しかったかが窺い知れる話であり、沖縄と本土の“思考の隔たり”が激しいかが、よく分かる話ではないか。

平和主義を軽々しく口に唱える、極左思考の変革者にとって、自分の意見を素直に聞き、その通りに動いてくれる人以外、邪魔でしかない…だから、反対意見、あるいは、常軌を逸した行動を指摘する相手を“敵”と見做して“攻撃”するフシがある。その手段は様々でも、最終的には物理的な暴力を振るうのが、ある意味“お約束”である。だが、達観的に物事を見る事ができる相手に対し、暴力による排斥を行えば、必ずそれが遠因で自滅する訳である。あらゆる手段で自分達の主張が通り、傍若無人の限りを尽くせば、それゆえに“討たれる”のである。以前にTwitterでも呟いたが、古代の歴史の中での“奴隷制度”に関する思考をやった訳だが、近代史の“奴隷”と違うのは、“奴隷”と言えども、その上司たる“市民”が支配下の人足に関するマネシメントができてないと、同じ市民からも批判され、配下の民から蜂起を喰らって滅亡する事が頻繁だった訳であり、その反省から、何度も民主的なやりとりが模索され、そこから主従関係を支えてきた訳であって、一方的なカタチでの“支配”は、むしろ大航海時代以降の話である。言い方を変えると、公共事業や都市整備、および、軍事に関する徴用は、奴隷ではなく民衆の“総意”で行われていた事が多く、また、土木現場では就労者の体調管理や日程調整は、現場指導者が責任をもって行う事が義務付けされていた訳であり、そこを無視して様々な物語が描かれてるから、後世の人がそれを読んで、勘違いしてるトコがあるという訳である。つまり、主人たる者、配下に対して充分な配慮なしで指示を出せば批判された訳であり、また、従者も支えたる主人に対する恩を忘れて、好き勝手すれば捨てられる…という関係だった訳である。

では、その関係が崩れたのはどこか?実はその“答え”は、意外なトコにある。史実を精査すると、日本の場合は完全に鎌倉〜安土桃山時代の頃であり、欧州だと、ルネサンス期から、中国に至っては、清朝後期である…つまり、この頃からおかしくなる訳であり、同時にこの時期を精査すると、大概は宗教に関わる出来事が絡んでる…というのも、実は日本の仏教は、現在はいわゆる“鎌倉仏教”と呼ばれるモノで、それまでの仏教の概念で釈尊滅後から2500年経過して“末法”の時代…即ち、今までのやり方では功徳を得られず、無意味なモノへと変質した状態と説かれてたため、そこに対して様々な“解釈”の下で、様々な宗派が立ち上がった時期が、鎌倉時代だった訳である。(日蓮仏法もさることながら、浄土系や禅宗系も、実はこの時期に勃興したため、それゆえのトラブルが、戦国時代までに全国規模で頻発した訳である。)これと同じ事が、キリスト教イスラム教でも勃発してた訳で、その結果、聖書やコーラン(教典)を信仰の軸とする宗派と、聖職者に権限があるとする宗派が対立することとなり、これが現在に至る訳である。そこに明確な“主従関係”なんて存在しない…あるのは、自己の感情のみであり、故に相手を罵る事が是となってしまってる訳である…これが平和主義者が唱えるトコの“正義”の“正体”である。どの宗教でも、異口同音に世界平和と人類の安寧を願い、様々な教えを説いているにも拘らず、なぜこうも拗れるのかといえば、結局、当時の指導者自身の私欲・私怨で、基本的な宗教哲学が歪められ、それがまかり通ってしまった事で、宗教が説くトコの“本意”が、私利私欲という名のノイズで掻き消されてしまった訳である。

ここまで解説すれば、恐らくお気付きになるかと思うが、世界規模で今、いわゆる“社会共産主義思考”が様々なトコで蔓延しまくってる訳であり、一部の富豪にしかお金が巡ってこないことを理由に、貧困が広がっているという感覚が、相互理解の機会を阻害してるトコがあり、また、様々な市民団体の“裏側”に、何か“赤い影”がチラチラ見え隠れしまくってる訳である。更に、ノーベル賞アカデミー賞などの文化や科学の権威ある賞賛の場を、ある意味“政治利用”してるトコがある…F1でレースクイーンを今年から廃止するという発表があったが、一体、これは誰がそう言いだしたのか?また、三重県志摩市の“萌キャラ”として登場したハズの“碧志摩メグ”に対して、一部の“女性団体”が猛抗議して、結果“非公式”となってしまった背景にも、当然、そういう思考の人達が暗躍したと考えていい。だが、これを訴える人程気付いていない…自らの意思で、必要以上に表現や言論の場を奪っておきながら、自分の主張だけを押し通そうとする行為は、反発を食らうのは当然の結果であり、それを物理的に排除(=暴力での圧政)を行うのであれば、同じカタチで激突するだけの話…相手の存在を認めた上で、地域や宗派の違いからくる“多様性”を守ってやることも、本来、宗教の基本理念であり、“異体同心”だからこそ、世界は成り立っているのだということに気付かない人が共産主義を振りかざしても、それは“正義”ではない。