迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

五輪小噺…ま、いつもの雑文だがw

SNS上で、フィギュア男子のワンツーや、スピードスケート女子500mでメダル獲得関連で相次いだ言葉に、“日本人が偉いんじゃない”という、全くもってトンチンカンな意見が散見されたが、“日の丸を背負う”という時点で、それは既に“日本人”として競技に挑むことを意味し、そこで金メダルを獲るということは、世界中から集ってやる“平和な戦争”に勝利したことを意味する。即ち、国の威信をかけた“スポーツの祭典”であるという意義を踏まえれば、純粋に“ニッポンエライ”で喜ぶ事案であり、また、各国首脳が自国に在籍する選手の活躍を賛嘆するのは、全くもって普通の感覚である…当然、勝者を讃えることが前提ではあるが、それ以上に善戦した自国の競技参加者を労うのは、国の長として普通のことであって、それをボロカスに言えって時の為政者に対してほざいてる自称インテリ人には、怒りを通り越えて哀れみしか感じない。また、Twitterでも長々呟いたが、地方のしがない医療機関や建設会社、および、食品加工メーカーが身銭切ってオリンピック出場選手の支援を行なっているのは、国の支援だけでは足りないことを知ってるからこその話であり、そういった部分の公的資金の流れを“税の無駄”といってカットすることを要求したのは、いうまでもなく国民自身だということを失念してはいけない…アメリカでは慈善活動やアスリートの支援は、国家プロジェクトの一環と位置付けて企業や団体が払うべき法人税などの減免が受けられるような仕組みであり、北欧三国やスイスの場合、直接税や間接税がべらぼうに高くても、その分を生活保護や養育費等の公的支援のために活用してる。そこんトコの概念を抜きにして、消費税や所得税のことをとやかくいう人は、なんで今、交通インフラがこんなにも脆弱になったのか、今一度考え直せって言いたい。

閑話休題…というか、それ関連で申し訳ないが、日本のチームが、あるいは日本国籍の選手が、国際競技の場で勝利することが、そんなに“恥”なのか?アスリートやクリエイターが“清貧”であるべきだという概念で批評してる人達って、なんでそこまでウエメセで才ある他人を罵るんでしょうかね?自分が惨めだと思うからこそ、他人も“同等であれ”と願うのなら、むしろ関わらずに聞き流せばいいだけなのに、それができない時点で、余計に惨めじゃないですかw そもそも、他人を褒められない人ってのは、自惚れが過ぎて謙遜するのが“正しい”と思い込む傾向があり、他人から“賞賛されること”自体をなぜか嫌う。その“背景”にあるのは、批判されることへの“恐怖”である。全方位で好かれたい反面、ちょっとでも自分のことを嫌う人がいることが不愉快でしかなないからこその話だ。しかし…その態度こそ“自惚れ”でしかない。大多数に“嫌われる”ってことは、それだけ関心を寄せてもらえてる証左であり、存在感を認めているからこその“批判”である。逆に大多数から“支持”されるということは、それだけ分の“畏怖の念”も存在する訳であり、単に“好き”という感情だけではない。中には、消去法で残った意見がコレだったからという、ガチな意味で、どうしようもない絶望感しかない答えに、従わざる得ないという惨めさもある訳であって、散々悩み抜いた結果だからとサバサバした感情で受け入れる人もいる…ここの部分を勘違いしてはいけないのだ。

他人に対して“清貧であれ”と宣うのであれば、自分自身の価値観は、その程度でしか計れませんといってるようなモノであり、それ以上の対価を相手が要求してるのであれば、素直に立ち去るか、満額一発提示してやるのがスジである。前者の答えなら、相手も分相応の“手加減”をしてくるし、本当に分かり合えてる仲であれば、どんなに時間がかかっても対価を支払うことができる。が、後者の答えは時として、金銭的な部分でも、他のトコでも図々しさが目立つようになり、腐れ縁でも断ち切りたいぐらいに鬱陶しくなる。等価交換の理で言えば、双方が見栄を張り過ぎて疲弊してるのに、それじゃダメだと勝手に追い詰めた格好になるからだ。だから“遠く”に離れてしまっても、本当に必要となれば必ず現れるし、近くにいたとしても、関心が薄ければ薄いほど存在そのものが無視される。

話は変わるが、羽生結弦選手が京都の晴明神社で奉納した絵馬が、清明神社公式垢で公表されたことが物議を醸してる様なので、宗教やってる立場の者として、そこに書かれてた一文を解説すると、神仏に対する“正しい認識”に基づいて意見してることについては、感心できるし同意である。あくまで、神仏に対して“請願”する場が神社であり寺院であって、単に神力や功徳に縋ろうとする安易な考えで仏前に、あるいは神前に立つモノではない。そもそも、いわゆる神力とか功徳とか呼ばれるモノは、もともと自分自身に内包する精神的な柱であり、自分と世間を映し出す鏡である。その門前(正確には、それらを模した何かの前)で“誓う”からこそ、初めてそれを涌現させることができるのであって、どんなに立派な境内を構えようが、どんなに絢爛豪華な仏閣を建てようが、そこに祀られた札や神仏を模した造形物に縋ってる様では、どんな願い事も叶わない。誓いを立て、行動に起こすからこそ、神仏の功力が涌現する訳であり、そのための鍛錬として、聖職に就く者は、修行と称して聖書を繙き、声明を挙げ、五体投地する訳である。当然だが、千日諫行という苦行も、そういうモノの一環でしかない。だから、信徒が賽銭やお布施として寄進した浄財を生活費に回しても、必要最低限度のモノなら目を瞑るべきであって、宗教団体とて、その余剰金を社会貢献に回せるのであれば、なんの問題もない訳である…だから宗教法人法に基づき、収益が非課税になるのは、元々がそういうことに使うという制約があるからこその話であって、そこんトコを悪用する資産家やテロリストがいるモンだから問題になる訳である。

ま、何が言いたいかっていえば、素直に“おめでとう”という言葉が言えないのであれば、どんな偉業に対しても、自分に関わりないと思うのであれば、いかなる理由があっても、意見を述べずに無視し続けろってことだw